FLASH報道から1年・松永英明さんとの対話(7)

民主党懇談会について】

BB「懇談会が、実際には工作の場になんかなり得なかったのは、松永さんも僕もあそこにいましたから。笑
あんな状態ですから、民主党も。それはわかっているわけです。でも、それは行ってわかったことで。行く前にどうだったのかと。あの頃はもう脱会はしていないけれど、松永さんの言葉だと「不良信者」だったんですよね?」

松永「そうです。どうやって抜けようかと。例えば、教団にいるときって、通帳も経理担当者に預けなければならないんですね。自分で使えない状態になっていた。それで、1999年頃に「ネットランナー」に書いた記事の原稿料をサイバッチのAさんに受け取ってもらって、プールされていた。これを脱会資金として取り戻したというわけです。」


BB「それは教団にいるときに仕事をした分ですね?」


松永「そうです。そうやって準備していた。それから、懇談会で出した名刺ですけれどね、信者が、偽名の名刺を出すわけにはいかないんです。だからペンネームと入れた。もし入れないで配ったりしたら大変ですよ。私文書偽造であげられる。」

BB「え。そんな例があるんですか?」

松永「何でもやられます。ちょっとした違法行為でもあげられる。ガチガチにされているんです。公安はもう解散させたくてさせたくてしょうがない。だから、出席するという行為は教団にとっても、凄くまずい行為なわけです。」


BB「理屈はともかく、松永さん。失敗しちゃったよね。懇談会なんか来なければ良かったよね」

松永「2個失敗した。1つは懇談会のことと、もう1つは、きっこのことを書いたこと。あれで野田氏に発見された。(苦笑)きっこなんてね、ほんとに関係ないわけでしょう?あれがきっこの件と重ならなければ、記事にすらならなかった。たまたま野田氏が書いたときの、Flashの編集者が河上の読者だったんです。河上おたくで、それで面白いと記事にした。あの記事は誤報ですよ。ほとんどが」


松永「宮崎学氏は公安調査庁と過激派の間での二重スパイをやっていたんですが、野田氏が調査官時代に宮崎学担当でもあった。そのために野田氏が宮崎学氏を完全に敵視し、自分への攻撃に河上イチローが加わっていると思いこんだ。黒崎氏がコピペした内容などは、これは100%こちらは無実の話です。
その遺恨がこのときまで及んでいて、野田氏もFlushの報道後、宮崎学との関係やきっことの係が何もなかったことが判明したので、沈黙せざるをえなくなったわけです。」


BB「そのあたりは私には良くわかりませんが、確かに間が悪かった不幸な面もあったし、きっこだったら凄い騒ぎになっていただろうけれど、あなたに関する記述は、他は概ね真実だった。私にとっては、アレフの現役信者が来ている、それが松永さんだと言うだけで凄くショックだったんですよ。そこの認識があなたとやはり違うような気がする。オウムの出家信者が、個人的な興味でふらふらそういう場所に出てくるとは思わなかった。松永さんに会うまでは。そういう人がああいう場所に来るのは、組織の命令だと思うでしょう。普通はそうです。」


BB「だから泉さんがまずすぐ取材して否定するならすべきだと。で、メールでもずいぶん言ったんですが、彼女はすごく軽く処理しようとした。それで、こちらも何ていうのか、エスカレートしてしまったところがありました。」


松永「確かにそういうこと(懇談会への出席)は普通はしないですね。したらいけない。下手に目をつけられたら潰されるかもしれない。それを教団は今一番恐れているから」


BB「じゃあやっぱりあなたは軽率だったんでしょう?そこは。というか変わった信者だった」

松永「(苦笑)まさか、こんな風に騒がれるとは思わなかったしね」

松「ミドは言い方が悪いので何だかわからなかったと思うけれど、Flashの後、後追いで動いたのが新潮と文春。それが何も出てこなかった。例の弾さんの件とか。さらにミドが新潮とNHKのオウムに詳しい記者を連れてきて(新潮記者はかつてなあぷるについての記事を書いた、あるいみ宿敵みたいな人です)、それで私について調べた結果、「今は教団と関係ない」という結論を出したんです。このへんの話をミドは言っているんです」。


BB「それがクロスチェック?」

松「そう。うまく伝わらなかったと思うけど」

BB「でも、それは(いやまだ疑っているわけではないけれど)新潮や文春、NHKの取材では、決定的な証拠は掴めなかったということで、それが何も松永さんの潔白の理由にはならないんじゃないんですか?報道では何も出てこなかったというだけで」

松「いや、きっこはないですよ。それは彼らは調べたから。すごく」

BB「きっこはいいです。わかってます。そんなことまだ信じているやつはどうかしている。松永さんが懇談会に出席した意図とかそういうこと」

松「公安はね、アレフを潰したくてしょうがない。だから、あの懇談会の件はすごく彼らも食いついた。調べて調べて結局何もなかった。だから年次報告にも何も出ていないでしょう?私が工作したとかそんなことがあったら、書かれますよ。絶対に。」

BB「あそこに出ていないからと言って、疑われていないことにはならないのではないですか?こういったら何だけれど、公安にとっては松永さんといえども多くの脱会信者の1人でしょう?何もあそこにかかれていないからと言って、潔白であるというのは論理的に厳しいのでは?」


松「いや、僕が何かたくらんでいたというなら、絶対に書かれます。あそこに。というか、それを理由に活動停止処分とかまでいってますね。いくら調べても何も出てこないから、あそこには書かれなかった。これだけだけでも証明になるんです」


【泉さんやumeさんとの件】

※泉さんとの出会いの件や、umeさんの退職の件なども話題に上がったが、松永さんもumeさんの退職の経緯については、知っていることは言ったが公開する立場にないいうことで、それ以上の話にはならなかった。また泉さんとの出会いの経緯も、今までに泉さんが説明している通りであり、ここでは割愛します。



【教団との関係】

BB「松永さん、こんな風にしていて危なくないんですか?つまり、教団のいずれかから危害を受けるようなこととか。何だか見ていて心配ですよ。これだけ目立っているというか。すごくマークされていますよね?きっと」

松永「笑。ああ、そんなことは絶対にありません。脱会信者に対して手出しをしたりしたら、もう絶対に公安が動きます。それをやったらアウト。だから手は絶対に出せない」

BB「強引に説得とか、戻そうとかなかったの?」

松永「話し合おうというのは当然ありますけど、強引にやったりしたらアウト。そんなことはできない」

BB「でもわからないじゃない。松永さんだってオウムの全部を知ってるわけじゃないんでしょう?」

松永「気力もなくなるんですよ。24時間監視されていると。危険はないです。それは絶対に」


【松本家の四女の問題について】松永さんが、江川紹子氏の養女になった四女について、どう思っているかという件について、若干伺ったが、これは時がくれば彼がご自分で公開されるだろうし、時節柄微妙な問題でもあり、ここでは伏せる。要は松永さんは、四女の教団への姿勢が急に変わったこと、報道されたような松本家と四女の距離感にについて少々疑問を持っていて、こあたりは、は滝本弁護士とも基本的な事実関係についての認識は一致しているとのことであった。



FLASHの記事は、松永さんから見れば、昔からの因縁を引きずっている野田氏が、きっこと松永さんを妄想で結びつけた「誤報」であり、あのタイミングで記事にする理由は全くなかったということになる。松永英明から見れば、既に教団を出る準備を進行していたのに、たまたま軽い気持ちで行った懇談会と、その前に掲載していたきっこ分析のエントリーを、勝手に結び付けられて、生活をめちゃくちゃに破壊されることになったという恨みが強いように見えた。だが、私には、そしておそらく民主党にとっても、たとえ松永さんがきっこでなくても十分インパクトのある記事だったのだが、当事者とすれば何の「悪意」もない以上、騒ぐ理由がわからない。ということになるのだろう。
「教団の危険性」を警戒する見方(私を含む)に対しても、アレフは既に公安の監視下でガチガチにされているので「絶対に」危険はないと言う。だが、事件前にもしも内部の信者に「あなたの教団は危険ですか」などと聞いても、おそらく同じような答が返ってきたと思う。それでも、あの事件は起きたのだ。松永さんが全てを知っているわけでもないし、もちろん全てに責任を負う必要もない。ただ、彼の視点によれば「危険性は全くない」ということになるだろう。危険でもない教団を過剰に警戒し、信者や元信者の社会的な生活を制約している、法的権利を侵害しているのは、社会であるということになる。その一方で公安調査庁とは、微妙な拮抗関係というか、相互関係が成立しているようにも思える。


ここまでいろんな話をするつもりはなく、1時間ほど様子を伺って帰るつもりが、思いのほか長く話し込んでしまって、その間席も立たずに対応してくれた松永さんに感謝するとともに、体調の悪いところで長い話をしてくれたことに関しては、負担をかけて申し訳なかったと思う。それどころか、松永さんはまだ話し足りない様子であったが、後半に何度か携帯に電話が入った。友人が近くまで来ているということで、ではもう打ち切りましょう。とそれを機に席を立ったのだが、御堂岡氏のmixiの記事を読み、実はこの間に松永さんの連絡が途絶えたということで、大騒ぎになっていたことを知って驚いた。


当日、仕事のスケジュールでいったん対談をキャンセルにしたのだが、思いのほか早く仕事が片付いたので、連絡をして当初の予定通り伺わせていただいた。こうした直前の私の予定の変更で、結果的に周囲に心配をかけたことは申し訳なかったと思う。


それ以外にも、対談の後でいくつかメールで質問を出したが、それはおそらく、近い将来にもう一度公開される「新しい形式の手記」で引き続き書いていかれるだろうと思う。公開できる対談の記録はここまでである。まとめはまた。

FLASH報道から1年・松永英明さんとの対話(6)


河上イチロー時代と脱会】


BB「河上イチローの時は偽装脱会だったと御堂岡氏は言っているけれど、本当のところはやはり偽装だったんですか?」

松永「・・・偽装というより・・あれは「分派」。あの頃は、とにかく破防法適用を逃れるために、何でもやろうということだった。オウム流だけではダメというか。いろんな方向を探ろうと。でもやっているうちに僕は夢中になってしまったので、どんどん外れていってしまったんだけれど。破防法をかけられてバラバラになったとしても信仰は保てるように、という話があったのです。


BB「松永さんの名前が削除されているという、公安調査庁に提出されているはずの名簿は見られないんですか?私たちは見られないのはわかりますが、松永さんも見られないんですか?」

松永「教団に言えば見られると思います。あと、自治体などが公安調査庁に請求すれば見れます。」

BB「実際に確かめてみないと本当に名簿から削除されているかどうかわからないじゃないですか。脱会届を大仰に提出することで、代表派の嫌がらせがあることを恐れておられたけれど、わざと松永さんの名前が残されていたりしないんですか?」


松永「いや、それは絶対にないです。何度も確認したし」

BB「それは教団に確認したんですか?」

松永「ええ、何度も念を押した。名簿というのは、ただ氏名を列挙するのではなくて、教団内での役割とか役職も書くんです。例えば、広報が誰とか、この役割は誰とか。私の場合、そうした役職を全部他の人に引き継いで、誰に代わったというところまで確認しているから、大丈夫なんです」

松永「河上イチローのときも脱会届を出したと言っても信じてもらえなかったので、今回また内容証明で脱会届なんて出しても意味がなかった。(そんなことをすれば)嫌がらせをされて、名簿から削除してもらえない可能性もあったし。BBさんは出せ出せと言っていたけれど。」


BB「前回は公正証書とか、内容証明とか出したんですか?」

松「河上時代には、脱会届を出し、それを公正証書として保管してもらっていました。ネットには公開していませんが。しかし、それが「偽装脱会」と言われる状態であり(こちらの認識としてはさっき言ったように分派なんですが)、今回、同じように公文書的に脱会届を出しても認められないだろうと考えた、という流れです。」



【報道企画書について】


BB「表では僕は書かなかったけれど、僕は正直、あなたがあんなものまで書いていたというのは正直驚きました。だって泉さん、2−3回知恵を借りた程度だって言ってたでしょう?」

松永「でも、確かに2〜3回なんですよ。1回は喫茶店で話をしました。
それでumeさんにシステム系の相談をしてくれと言われて、それで一度メッセンジャーでやりとりをし、その後、企画書が送られてきて、なんか全然ちがうやん、と(笑)。で、最終的にややこしいからこちらで勝手にあの文書を書いてみたという次第。放っておくと、システムをわかっていないシステム屋さんの机上の空論みたいになりそうだったので、自分のブログ記事として書いた文章を残したわけです。


BB「別に陰謀があったとは、さすがにもう思っていませんが、松永さんももしかしたら報道機関ができたら、仕事になると思っていたんじゃないですか?それは別にあっても不思議じゃないし。」


松永「それは絶対ないですよ。僕は企画だけで、後は関われないと、彼女にはっきり言っていたわけですし」

BB「じゃあ、なんであんなもの書いたんですか?好奇心ですか?」

松永「でも泉さんには、まったく採用されなかったわけです。後から出てきたものを見て、これは全然違うと。「ユーザーカルマ」なんて、事前に見ていたら絶対に削除してくれと言った。まずいですよ。あれは、あまりにも。いくらシステム上での用語でも、あれはね、まずい。ちょっと待ってよという感じ。でも何の話もなかったんですよ、こちらには。だいたい、泉さんもumeさんもアフィリエイトもはっきりわかっていなかったと思う。仕組みがよくわかっていない。あれでは、僕の書いた企画書の本当の意味も理解してもらえなかったと思う」


河上イチロー時代は、松永さんに言わせると「偽装脱会」ではなくて、「分派」だという。これはなかなか微妙なところなのだが、要は、あの当時は何とか破防法を逃れていろんな形に姿を変えることで、信仰を守ろうとやっていたということらしい。ところが松永英明さんという人の、不思議なところというか、ユニークなところは、そうした活動をしているうちに、そっちが面白くなると原理原則を(おそらく)忘れて、そっちにのめりこんでしまうということだ。背後に冷静な組織の意向があったのではないかと疑いたくなるのは、自然だが、どうも聞いているとそういうことではなかったようでもある。この曖昧なところは、民主党の懇談会に出席した行動にも、報道企画書の件にも、つながってくるように思う。おそらく「悪意」はないのであり、異様に探究心が強い。その「探究心」の正体をまた疑うなどとしているときりがなくなるのであるが。
「ユーザーカルマ」については、もし事前に知っていればやめてくれよという感じだったと言っておられたのが印象的だった。
脱会届は、河上時代に公正証書として作成し、保管してもらっていたというのも、ここで初めて聞いた。あのとき、脱会届という言葉に、妙に過激に反応されていたのはこういうことだったのか、とわかった気がした。
教団の名簿からの名前の削除については、かなりしつこく聞いている。間違っても、絶対にもう掲載されていないという彼なりの根拠も、記されている。

FLASH報道から1年・松永英明さんとの対話(5)


サリン事件】

BB「教義と運営をわける松永さんの考え方は、私にはそれなりにわかるところもあった。知らんくせに教義に突っ込むなとみんなに言われたけれど、そこに突っ込まないと松永さんを理解することはできないと思う。しかしわからないのは、問題のヴァジラヤーナの教義(「五仏の法則」教義)は別として、その他の教義に殺人の要素が全くなく、殺生は厳しく禁じられていたと。犯罪に手を染めた幹部が、もしも教義を守っていたとすれば、「教義に反する運営」がなされたということになりますが、それがわからない。なら幹部は教義を守っていなかったということなのですか?」


松永「そこは、・・・・やはりマハームドラーだったかもしれないと思います。前にも書いたけれど、あの人(麻原)ならやるかもしれないと。つまり失敗させようと思って、故意にやらせたという要素があるのではないかと。波野村、あるでしょう?あそこへの移転の日時は占いでは最悪の日取りだった。それがわかっていて、あえて移転を決行したからみんな驚いた。そういうことをやるところがあるんですね。だから、失敗するとわかってやらせたかもしれない。まあマハームドラーの考え方については、もっと詳しく書くつもりでいますので、今はこのへんで。」


BB「それは、あの「情けない詐欺のオヤジ」と世間が思おうとしていることと違いますね。ある意味で麻原を神格化する見方になってしまいませんか?」


松永「うーん・・そのあたりは正直わからない」

BB「結局なぜ事件が起きたかは、わからないのね。松永さんにも」

松永「そうですね。全くなかったわけだから。私が触れていた教義には、そういう殺人を正当化する部分が」

BB「真夜中氏なんか、ただの詐欺の舞台装置であると言っていますけれど。教義もそのためのツールだったと。」

松永「読んでいませんが、そういう見方をしてわかったつもりにはなれる人もあるかもしれませんが、私はそういう見方には賛成できない。麻原の本当の考えがどこにあったのか、そういうところはよくわからないというのが正直なところです。」


BB「この間お書きになった、あなたの教師の例を読んだんですけれど、あれには大変に違和感を覚えたんです。ほら、理科を教えていた教師が何をしていたかなんて国語の教師にわからないという。(ここは私の記憶が正確でなかった。文末参照)でも、中にいるとき、本当にわからなかったんですか?事件について」

松永「教義にそういうことは書かれていないですからね。殺生を禁じていたわけで、ゴキブリも殺さなかった。それは報道されているでしょう?」

BB「いや教義がどうではなくて、どうもあの人は怪しいなとか、なんとなく最近様子が変だとか全く思わなかったんですか?」

松永「今になってみれば、仮谷さんのことがあった当時は、ちょと不穏な動きがあったかもしれない。ちょっとおかしいなというような。でもこれは・・今は・・ちょっと言えませんね。そのうち書くかもしれない」


BB「米軍の毒ガス散布のことなんだけど、本当にそんなことを信じていたんですか?私から見ると、すごく荒唐無稽な気がするんだけれど。」

松永「あの頃は、上九周辺の農家には盗聴器が仕掛けられているとか、実際に信者がみんな体調が悪いとか。そういう話がありましたしね」

BB「事件直後までは信じていた?」

松永「そうですね。信じていた。」

BB「責めるわけではないんですが、騙されていたというか、そういう面で自分を悔いる気持ちとかは全然ないですか?やられたと。あなたを見ていると、そこのところが・・・。教義になかった。わかるわけがない。だから、自分とは関係ない。わからなかったんだからしょうがないと言っているところが目に付く。だから反発されると思うんです。結局松永さんも騙されていたんでしょう。自分は騙されていた。恥ずかしいとか。悔しいとか。僕ならそう思うと思うんだけれど。」


松永「・・・・うーん。そういう気持ちはないですね。・・」

BB「松永さんも書いていたけれど、麻原の朝ナマね。あれ、私も見ていて、実は凄いなあと麻原は本物じゃないかと思った。幸福の科学とかめちゃくちゃだったしね。やはりあなたもあの後凄く信者が増えたと書いておられた。でもね、その後上祐とか嘘つきまくったでしょう?僕はすっかり最初だまされましたよ。オウムがサリンを撒いたのではないのではないかと思ってしまった。松永さんも事件を信じていなかったんでしょう?」

松永「オウムに対する攻撃だと思っていましたからね。」

BB「だいぶたってから、段々理解したんですか?再度戻ったときには、もうオウムの犯行だと思っていたんでしょう?」

松永「その頃はもう思っていましたね。」

BB「だまされたとか、悔しいとかそういうことはありませんでしたか?」

松永「教義にそういう部分がないですからね、わかれと言われても無理だった」

BB「いや、教義じゃなくて、あなたたちを騙していた人間がいたわけでしょう?それは運営サイドなのか、麻原かわかりませんが。いたわけですよね?悔しく無かったですか」

松永「それはないです。別に殺人を手伝っていたわけではないし、教義の中にそういうことがない以上、わかるわけがないですよ」

BB「でも、私なんかですら悔しかったですよ。例え一時でも、テレビの中での上祐を信じたことが。後から自分が馬鹿だと思いましたもん。それが松永さんは間近にいたわけでしょう?悔しくないというのがわからないなあ」

松永「いや、悔しいとかそういうのはないです」

BB「でも松永さん、そういうのを指して、「抜けていない」って言われるんじゃないですか?。松永さんだって、自分に全く間違いがなかったというんじゃないでしょう?後5年くらいたったら、すごく松永さんの気持ちも変わるかもしれないですよね。」

松永「それはわからないですけどね」



※教師の例

エレニさんのサイトのコメント欄で(現在はプライベートモード)necoさんと松永さんの間でなされた、以下のやりとりを指す。エレニさんの協力を得て、再現してみた。(もしもどなたか、不都合があれば言ってください。)


neco 『松永さんにお聞きしたいんだけど・・・
家族から犯罪者が出たような感覚という話がありましたね。

宗教団体での言論の場に携わっていらしたあなたと、
結果として団体の構成員による犯罪が発生したという事について、
原因と結果の関係をどう考えていらっしゃるのか、
よろしければ、もう少しお聞かせください。

もちろん、完全な条件関係があるとは思いません。あったらあなたも既に逮捕されている。
しかし、世界の在り方を深く追求する宗教と、世界の切り取る道具としての言語とは、深く関わるものではないのでしょうか。
毎日オニギリ作ってただけとは全然違うように思うのですが。

一般論や抽象論抜きでお答えいただければ幸いです。』

# matsunaga 『私が「テロをやりましょう、クーデターをやりましょう」と言っていたのであれば、責任があるかもしれませんが、そういう事実はありません。また、テロ人員を集めることを目的として言論を用いたわけでもありません。したがって、ここに因果関係は皆無。

学校で教師が何か問題を起こしていたからといって、数学や理科や国語の授業の内容が間違っていたということにはならないのと同様です。』

# neco 『ご回答、どうもありがとうございます。
私は授業の内容を直接問題にしたいのではなく、具体的にそのような教科書や学校のパンフレットの作成に携わっていた事の意義をお聞きしたかったのですが。問題教師自身ではなかったにしても、給食のおばさんとは、ちょっと立ち位置が違いませんか、と。』

# matsunaga 『大筋ではあの記事は誤報でした。それは前提にあります。野田の記事の目的が明らかに「きっこの日記民主党プロパガンダ装置であり、それを松永がやっている」という妄想に基づいて報道価値があると思いこんだのであり、たまたまそれが旧知の宿敵だったのと、合法とはいえない手段で個人特定を行なうことが容易にできる環境にあったというだけの話です。そして、仮に事実についての報道であったとしても、事実に見合わない規模の報道被害があったと考えています。

necoさん。問題教師というのは、たとえば放課後に女子高校生と援助交際していたというような話です。じゃあ、その教師に教わった内容について全否定すべきなのか、あるいはその教材作成を手伝ったら何か内容に問題があるのか、という話です。でもあの先生、教え方はよかったよね、と言ったら、全否定しないことが責められるわけですけど。「不純異性交遊はいけません」と授業で教えていながら、裏ではそういう行為があった、という場合、「いけません」という教材を作っていたことに責任があるのか、あるいはそういう教師の行動を知らずに学校の勧誘パンフを作ったら援助交際の共同正犯か何かなのか、ということです。』


ここは大きな話なので、また後で。

FLASH報道から1年・松永英明さんとの対話(4)


【「松永英明」で今後もやっていく】


BB「ところで、これからも松永名で仕事するんですね?河上イチローから松永英明に変わった様に、また変えてしまうとかいうことはないですか?」


松永「ないです。出版社も認めてくれているんだから、今後はずっと松永英明でやっていきます。名前変えるべきだと言われたって、名前を変えて仕事をやっていたら、こいつが実は旧松永だ、とか騒がれて意味がない。すでに、別のペンネームにやってるに違いないがそれは何だ、と探っているような人もいる。だから、変えない。変えるとしてもブログで公開することになると思います」


BB「わかりやすいからね、松永さんの文体。(笑)・・でも器用だから・・」

松永「きっこ口調でやるとか (笑) 人の文体は真似できるけれど、それをずっとやるのは無理ですからね。僕が興味のあることを書けば、また見つけられる」

BB「今後も松永英明名でやっていくのは僕は賛成だし、それならはっきりとそれを言っていったほうがいいと思いますね。もう松永でやっていくよ、変えないよと。僕はずっと松永英明で復活してもらいたいと思っていたから。そこは黒崎さんとはちょっと意見が違うかもしれないけれど。あの人は筆をしばらく折れと言うことだと思う。でもそれなら尚、一層アーカイブは必要ですよ。松永さんのやり方はモグラたたきみたいで大変でしょう。どこかでやっぱり文句があるならここを見ろ!みたいな場所は必要でしょう。脱会のことも。それを見ても、尚かつ絡み続けるような人間は、これはしょうがないと思うけれど」

松永「うん、それはそうかもしれない。でもとにかく今は余裕がないっていうかね。」

BB「時間がかかっても、今度はそういう場所を共同で作っていけるといいと思いますね。」

松永「何も知らないのに、ほかの仕事しろとか言われますよね。そりゃあその気になればコンビニでもやりますよ。時給1000円にはなるし。アルバイトだってやれることはやったりしてるんです。書かないだけで。それが、まるで何もほかの仕事はしようとしないように書かれる。一体俺の何がわかるのかと。」


BB「でも松永さん、体弱いからね。笑 やっぱり書いたほうが効率がいいですね」

松永「確かに体弱い 笑」



【大阪】

松永「しつこく中傷してくる人間は、前からの行きがかりで恨んでいる人間というのがいて(詳細略)、大阪からのアクセス記録とか、残っているんですね。それはもう僕を叩くためにやっている。XXXXとか。そういうことを、黒崎とか知らないでしょう。知らないことがたくさんあるよと。BBさんもね。それを言いたかった。」


※この件、個人名が出てくる箇所があるので省略

※「松永英明でこれからもやっていく。もしもペンネームを変えることがあれば、それはちゃんとそう公表する」という彼の姿勢は僕は支持したい。もとより、それは楽なことではないわけであるが、だからこそ、また別の名前で「潜って」しまうことがあるのではないかと、誰もが案じていると思う。松永氏はそれをはっきり否定した。「また”発見される”のもこりごりだ」とも苦笑していた。おそらくどんなことがあっても、ここから別の場所(名前)に逃げるようなことは、できないし、したくないと思われたのだと思う。今後も松永名で仕事をすることで起きる困難についても、少なくとも彼は引き受けるつもりでいるのだろうし、「誹謗中傷」には対抗し続けたいと思っているのだと思う。対抗し続ける中にあって、説明もまだ続けなければならないだろうし、今回のように疲れてしまうこともあるかもしれないが、そうした姿勢を続けて優れた仕事をしていけば、必ず理解は広く得られるようになってくると思う。誰も知らない名前に変えてしまってその都度人生をリセットし続けるなんて、誰にもできないし、かえって大きなロスになって自分にかえってくると思うのだ。繰り返しになるけれど、この姿勢は支持したい。
一方で大阪とかは、少しこだわりすぎるのではないかなあという印象を持った。このことの人間的な背景というか経緯は、少し話してもらったけれど、やはり僕にはそのリアルな感じが感じられない。(虚偽であるという意味ではない。背景や想定される人間のことを知らないので、なかなかビビッドに彼のこだわりが伝わらない。という意味だ)

FLASH報道から1年・松永英明さんとの対話(3)


【手記】

BB「手記は書いておられるんでしょう?まだ」


松永「今は中断しています。あれは、はてなグループの公開「停止」設定にしただけですから。とりあえず中途公開をしないことにしたんですが、あんなに書くのが大変だと思わなかった。特に事件周辺はナーバスな要素多くなりますから」


BB「やっぱり精神的にきついですか?」


松永「というより、特に事件前後のところは、大事なところだから事実関係で間違えてはいけない。調べて書いていくと本当に大変。その途中で、ああいう風に曲解されて中傷されると余計書けなくなる。」


BB「思うんですが、本来、中途で公開するというのは無理だったかもしれませんね。僕も途中までは、簡単に考えていたけれど、読んでいるうちにこれは大変な作業だったんだとわかってきた。松永さんは入院中にほとんど書き終えていたのかな?と思っていたんですが。最初はもう少し軽く考えていたんじゃないですか?」

松永「そうですね。実際あんなに長くなると思わなかったですね。もっと短くまとまると思っていた。」


BB「これもずっと松永さんから僕は誤解されていると思うんだけれど、謝れとか詫びろとかそういうこという気は、少なくとも私はないんですよ。これは何度も言っている通り。そういうことをあなたに強いる気はないんです。
でもね、シガチョフとか読んで、すごく驚いたというか、やはりあなたしか書けないものがあるんですよ。だから、こういうとまた強制とか思われるとか困るけれど、やはり何とか書いてもらいたい。」


松永「シガチョフは、何で急いだかって言うと、ミドが勘違いして全然違うことを書いていたから。それでそこだけ先に書こうと思ったんです。とにかく最初に考えていたよりもずっと大変な作業だった。書き始めてみたら、章立てもどんどん書くうちに増えてくるし、もっと簡単にまとめられると思っていたんですが、特にこの10年は間違えたことは書けないから、相当事実関係を調べて書かなければならない。それが書いている途中で、自己顕示だとか、やっぱりオウムが抜けてないとか言われるとね、もう本当に書けない」


BB「もともと、途中で書いては公開し、公開しながらまた書くというのが無理な形式だったのかもしれませんね。一気に書いて、全部読んでから批判しろと、ばっと出すとか。僕は、とにかく松永さんが書き終わってから喋ろうと思って、途中でいろいろ言うのはやめようと思っていたんだけど。懇談会のところにもいつか書き進むだろうし、その前の経緯から読まないと、部分ではね」


松永「一つの事実を書こうとすると、そこだけ書いたら誤解されるから、なぜそれがそうなっているかということを書かなければならない。それが積み重なると、あれもこれもとなって大変になってくる」

BB「あの「閾ぺディア」?それも見据えて作ったのかなあと思ったんだけれど。もしくは単にWikipediaでの出来事でのストレス発散だったのかもしれないけれど。面白いとは思いましたが。」

松永「手記のためということはないけれど、まあそういうことも考えられるかなあというのはありますね」

BB「今度(手記を)もしも公開するなら、いきなり出さないで、いろいろ複数の人にあらかじめ読んでもらったらどうでしょうか。編集者みたいに。いろんな立場の人にあらかじめ読んでもらえば、松永さんが気がつかないような部分がわかるかもしれない」


松永「うん、そういうのはあるかもしれませんね。」


BB「Wikipediaの編集のトラブルの件は、僕はわかる気もする。自分についてあそこでぼろくそかかれたら、いくら本人編集が悪いとWikipediaガイドラインにあっても、やっぱり直そうとすると思う。ただ松永さんのやり方は、野田さんに対してのところとか、ちょっとねえ・・」

松永「あれはアンチでやったんですよ。野田氏だってこういう風に書かれたらどうなるのかと。それだったら野田氏も消す。私のところも消す。両方消せばいいと。」

BB「まあ、そのやりあってる様を見て、はっきり言って馬鹿だなあと思われるとか、恥をかくとか、そういうのはあるかもしれないけれど、テーマにされている本人に、編集するなというのはどうなのかなとは思うけど、それはともかく、前にも言ったけれど、上祐を編集するなんて絶対やめたほうがいいですよ。あなたはもう脱会していて関係ないんだから」

松永「それはね、代表派からも反代表派からも嫌がられる。もうあれはね。」

BB「手記は、入信前後の前半部が、あまりに生き生きとしているから、そこで批判の対象になるんじゃないでしょうか。最後まで読めば、きっとそういうことではないんでしょうけれど、途中でやめられちゃうのもまずいと思うんですね。今は非公開になっているからいいですけど、松永さんのファンは多いし、あなたが思っている以上にはてなブックマークとか影響力あるから、あれ(前半部)を読んで若い人とかに勘違いされては困る。」


松永「それは絶対ないですよ。だってやめてるんですよ?私は最後に。やめた人間ですよ?その人間の書いたものを読んで、オウムに行くとかそういうことはあり得ないでしょう」


BB「いや、それははわからないですよ。みんなちょこっとしか読まないで、勝手に誤解するんですよ。それは松永さんも知ってるでしょう?だから、前半だけ読んで、今は後半はないんだから、「あーいいなあ」と思う人間はいないとも限らないと思いますよ。」

松永「河上イチローのときに、信者であることを暴露されて、その後教団のサイトをやるようになりましたが、それでも教団に入信したなんて人は誰もいなかったんですよ。」

BB「誰もいないかどうかわからないではありませんか。」

松永「いや、あの当時の状況からすれば、河上ファンでもしも入信したような人がいれば絶対に僕に連絡してくるか、耳にはいるはずですから。そういう人は確かに誰もいません。」



※ことさらに聞かなかったが、河上イチロー時代に、読者の一部を勧誘させて教団に入会させたというような、疑義があるいは提示されたことがあるのかもしれない。実は僕は河上イチローをリアルタイムで知らないのだが、知っている人からすれば実にカリスマ的な存在であったようである。そこを本人は気にしている。何度も「河上ファンで入信した人などいない」と強調されていたのが印象的だった。
手記に関しては、私の意見もあるいは取り入れてくれたのかもしれないが、別形式で準備を再開されたようである。公開できる時期については未定のようであるが、少なくともそういう試みはまだ続けておられるようだ。
手記が中断したことについては、いろいろ理由もあると思うが、僕は「黒崎夜話」だけが原因ではなく、松永さん自身が難しい時代を書くことに差し掛かって、内面の逡巡だとか、迷いだとか、言葉を選ぶことだとか、そういう面での心の負担も出てきたのではないかと思っている。お聞きした印象でも、やはりそういう面もあるのではないかと思った。

FLASH報道から1年・松永英明さんとの対話(2)


私は「絵文録ことのは」を多少読み始めたくらいの段階で、いったん松永さんに会っている。言うまでも無く民主党ブロガー懇談会である。その後2次会にも行き、永田町の駅まで行ってAaさんと一緒にホームで世間話をした。だから、松永さんという人がどんな雰囲気の人かは、前から知っている。ブログを読んでイメージを作ってから本人に会うというよりも、先に本人に会ってから、ブログを丁寧に読み始めたという順であった。


おそらく多くのブロガーがそうであると思うが、書くエントリーのイメージと実際の本人のイメージは会ってみると結びつかないが、松永英明さんという人も例外ではない。時としてブログ上での彼はエキセントリックで攻撃的であることが見受けられるが、実際の彼は非常に物腰の柔らかい人である。

エントリーやコメント欄で、時には激しく応酬しあいながらも、その彼の「雰囲気」を、最初から知っていたことが、私にとってまだ救いだったともいえるし、逆に知っているからこそ、かえってエスカレートした部分もあったかもしれない。実態とイメージ。実像と虚像。あるいは虚勢。それが私を含めて双方にあった。

久しぶりに会う松永さんは、ああいうエントリーの直後だけあって、最初はひどくやつれて疲れた印象だった。が、話が進むにしたがって、少し目に力が宿ってきたという印象であった。


「ご無沙汰です」と苦笑交じりに言うと、少し当惑した様子ながら頭を下げていただいた。



【「遺書」】


BB「あんな記事書くものじゃないですよ、松永さん。どんなことがあっても。あれは良くない。」

松永「いや・・・本当に、結構参っちゃって。当日(2月20日)は午後から滝本さんとネットの友人が2名ばかりが来てくれた。滝本さんには、御堂岡氏が電話したようです。ちょうどその時間外出していて、川岸とか歩いていて、もう飛び込んでしまおうかと思うくらい追い詰められていたんだけど。電車のホームとかに立つと、ふらふらっととか。滝本さんが来たとき、僕がいなかったので、滝本さんが自殺の恐れありということで、警官を呼んで大騒ぎになってしまった。もうドアを壊そうかというときに、電話がつながって、警官は20人くらいくるという話だったけれども、電話がつながったので。最終的には6名の警察官が残ったという形で。」

※松永さんはこう認識していたようだが、20日に滝本さんに電話をしたのは御堂岡氏ではないようだ。本人からコメントが入った。

BB「そんなに警官とか来てしまうものなんですか?」


松永「それはね。普通だと事情聴取されるんです。僕らは、こういう騒ぎを起こすと。でも今回は弁護士の滝本さんがいてくれたので、大目にみてくれた。XXXXX署の警察官には、こうなったいきさつを説明しました。原因となったブログのことも。
その後、心療内科に行こうと思って、近所の病院に行こうと思ったら、来週火曜日まで一杯だといわれた。もう一軒行ったら、そこも来週の火曜日まで待ってくれと言われてしまって。」


※この後、メールで実際に心療内科に通い始めたということも知らせていただいた。飲んでいる薬まで書いてくださったが、それはいいだろう。松永さんはこういうところは相変わらず実に几帳面である。


【仕事】

BB「何を言われても気にしないで、とにかく手記は書き続けていくというのはできないものですか?僕は途中で何か言うよりも、とにかくあなたがあれを書き終わるまでは待とうと思ったんですが。きっと懇談会の件もそこで出てくるはずだし。その後で僕の過去エントリーを確認しながら直すべきは直していこうと思って。でも、松永さんはそこら中のブログにいちいち反論しに行っているでしょう?あれはその非常に効率が悪いし、第一、あなたが疲れると思うんですよ。」


松永「何を書いても、もう終わっているとか、仕事もないとか、自慢に終始しているとか言われるんですけど、そもそも今回の騒ぎで仕事を切られた出版社なんて1社もないんですよ。それを仕事も切られているように言われて。」


BB「本当に?切られたところはないんですか?」


松永「本当に。出版社では1社もありません。アスキーの連載中止なんかは、言われているけれど元々スケジュールがそうなっていただけだから。」


BB「以前に仕事を切られたところがあるとおっしゃっていたような気がするけど?」


松永「出版社以外のところでは2件ほどありましたが、出版社は実は大丈夫だったんです。」


BB「じゃあ仕事はあるんですね?」


松永「あります。」


※ここでいくつかいまやっておられる仕事の内容も率直にというか、具体的に話してくださったが、事前に悪意の妨害に合うことを恐れるので、差し控える。最初会うことを引き伸ばしていたのは僕だったが、逆に1月頃からは、松永さんが原稿の締め切りを抱えていることが、なかなか会えない理由になっていた。そうしているうちに、今回の事態になった。

FLASH報道から1年・松永英明さんとの対話(1)


2005年10月31日に私は、泉あいさんの企画した民主党のブロガー懇談会と呼ばれる催しに出席した。ところがその後、2006年3月7日に発売されたFLASH3月21日号に野田敬生氏が『オウム信者民主党に「宣伝戦略」を指南!』を掲載。「オウム信者」とは、「絵文禄ことのは」の著名ブロガー松永英明さんのことであった。また、松永さんが、懇談会当時オウム真理教の出家信者であったこと、かつて「河上イチロー」と呼ばれる著名なネットワーカーと同一人物であったこと、そして当時大きな話題を呼んでいた「きっこの日記」の作者ではないかという疑いも記されていた。


その後、長くこの件は、オウム信者の政治関与の問題として、様々なブログで波紋を呼び、いくつものブログが炎上に近い状態になり、時には関係した人たちをひどく苦しめることになった。いわゆる「ことのは問題」である。もちろん当事者である松永英明さんの被った精神的負担は格段に大きかったと思う。


松永さんは3月13日に、かつての過去を認め、すでに教団を脱会していることを公式に表明したが、その説明に納得しない人たちも多かった。いや、そういう言い方は正しくない。この私は、中でももっとも執拗に彼の懇談会への出席の意図を問い、泉さんの報道機関設立計画への松永さんの関与の度合いを問い、いわゆる「追求派」と呼ばれる一群の中心にいたと思う。
私に松永英明を潰そうなどという意志はあるわけもなく、ひたすら「疑惑」と呼ばれるものの一刻も早い解消を、そのためには泉さんの、あるいは本人による説明をと願ったのだが、ことはそれほど簡単にはいかなかった。


その後松永さんが体調を崩されて入院されたこともあり、私たちの意志の疎通は進まず、むしろ様々な外的要因もあって、混乱を極めた。一部の彼の友人達が、彼のことを思うからこそであろうが、ネットに私のプライベートな情報を撒き散らし、それに私が対抗しようとしたことも、問題をこじらせる結果になったと思う。


松永さんが退院されてからは、ようやく断片的にコミュニケーションができるようになったが、双方に生まれたわだかまりは深く、また考え方の溝は深いことを思い知らされることになった。


それでも昨年12月ころより、松永さんから直接会いたいという申し出をいただいていたが、そのころ書いておられた手記の進行を待ってからお会いしようと、私の方で先延ばしをお願いした。私は手記が進行するまでは、細かな問いかけを彼にすることをできるだけ避けることを決め、ことのは問題に関わる発言を一時封印しようと思った。私たちが直接会って直に互いの「誤解」を解くことがこの問題のもっとも早い解決につながるとして、一刻も早い対話を薦める方もいた。


ところが、手記の進行にしたがって、松永さんは多くの批判に晒され、批判ブログの追求の厳しさは、人間としての彼に、大きな精神的ダメージを与える結果にもなった。手記も中断された。こういう結果を招いたことに関して、私はその端緒を担ったことを自認しているし、過剰に彼を追い詰めてきた責任の一部を痛感している。


その一方で私は、松永さんを信じよう、信じようとしながらも、釈然としない思いをこの1年引きずってきた。それは河上イチロー時代に松永さんが1回脱会しながら、また教団に戻っているという過去があること、そして、松永さんが現役サマナであり烏山の教団施設に居住しながら、公党の懇談会に出席したことの意味が理解できなかったこと、泉あいさんの報道企画書に関与した部分の内容が明確でなかったこと等である。


疑問に思っていることは、昨年の夏に以下のエントリーに書いた。


●ことのはを巡る未解決の問題・備忘録---夏の宿題編


また、昨年の春から夏にかけての、自分の姿勢の限界については、以下のエントリーに書いている。


●ことのは・夏の終わりに


期せずして、先月になってから、松永さんは心身の調子を著しく崩し、遺書めいたエントリーを最後にネットからいったん「消えた」。


もう、これ以上話を引き伸ばすことは出来ないと思った私は2月23日に松永さんの家の近くまで行き、民主党懇談会以来1年4ケ月ぶりに松永さんと直接話すことができた。

その会話の記録は当然公開すべきであろうと思っていたが、松永さんの精神状態の問題もあるし、今まで踏んできた轍を繰り返さないためにも、それ以後対話の記録をまとめるにあたって、原稿を彼に見てもらいながら、細かな部分を補足したり、修正したりに時間がかかった。といっても、松永さんは、私の書いたものはほとんどそのままOKを出しており、これは書かないで欲しいとか、弁解を後から入れるとか、そういうことは、一切無かったと言ってもいい。むしろそのまま書いていいとおっしゃっていたのを、私の方で頼んで見てもらったというほうがいいと思う。その上で。



●個人情報に関わるところ、関係者にとってナーバスな事項の一部は相談の上割愛した。


●23日には双方共にメモも録音もしていなかったために、後から書き起こした内容を互いに確認するための時間も必要だったといってもいい。つまり、この「対話」は23日以後も調整しながら仔細を補いつつ作成していったものであり、話した言葉をそのまま記録にした、前回の泉あいさんのインタビューとは、相当に異なるやり方で作成された。このことの長短はあると思うが、今回はたまたまというか、必然的にそういう形になったと理解されたい。


●この記録が客観的な資料としてどれほど意味を持つのか、それは私にはわからない。あるいは大した意味はないのかもしれない。話しても話しても近づけない部分がまだあることも確かである。だが、おそらくこの問題を私たちが越えていく上で、避けては通れない、必要なプロセスであることだけは、双方で一致したと言ってもいいと思う。


●対話記録は当日メモも録音もしていなかったこともあり、松永さんにあらかじめ確認してもらっているが、その後記事にするにあたってつけたコメントはBigBangの雑感である。コメントはコメントしてわかるように表示することにする。


今までの経緯をおさらいするような形になって、前置きが長くなったが、これから2月23日に私たちがどんな話をしていたのか、何度かにわけて公開していきます。まず記録を全て書いたところで、付け加えるべきことがあるかもしれないけれど、というかきっとあるけれど、それは最後に。


では。