FLASH報道から1年・松永英明さんとの対話(1)


2005年10月31日に私は、泉あいさんの企画した民主党のブロガー懇談会と呼ばれる催しに出席した。ところがその後、2006年3月7日に発売されたFLASH3月21日号に野田敬生氏が『オウム信者民主党に「宣伝戦略」を指南!』を掲載。「オウム信者」とは、「絵文禄ことのは」の著名ブロガー松永英明さんのことであった。また、松永さんが、懇談会当時オウム真理教の出家信者であったこと、かつて「河上イチロー」と呼ばれる著名なネットワーカーと同一人物であったこと、そして当時大きな話題を呼んでいた「きっこの日記」の作者ではないかという疑いも記されていた。


その後、長くこの件は、オウム信者の政治関与の問題として、様々なブログで波紋を呼び、いくつものブログが炎上に近い状態になり、時には関係した人たちをひどく苦しめることになった。いわゆる「ことのは問題」である。もちろん当事者である松永英明さんの被った精神的負担は格段に大きかったと思う。


松永さんは3月13日に、かつての過去を認め、すでに教団を脱会していることを公式に表明したが、その説明に納得しない人たちも多かった。いや、そういう言い方は正しくない。この私は、中でももっとも執拗に彼の懇談会への出席の意図を問い、泉さんの報道機関設立計画への松永さんの関与の度合いを問い、いわゆる「追求派」と呼ばれる一群の中心にいたと思う。
私に松永英明を潰そうなどという意志はあるわけもなく、ひたすら「疑惑」と呼ばれるものの一刻も早い解消を、そのためには泉さんの、あるいは本人による説明をと願ったのだが、ことはそれほど簡単にはいかなかった。


その後松永さんが体調を崩されて入院されたこともあり、私たちの意志の疎通は進まず、むしろ様々な外的要因もあって、混乱を極めた。一部の彼の友人達が、彼のことを思うからこそであろうが、ネットに私のプライベートな情報を撒き散らし、それに私が対抗しようとしたことも、問題をこじらせる結果になったと思う。


松永さんが退院されてからは、ようやく断片的にコミュニケーションができるようになったが、双方に生まれたわだかまりは深く、また考え方の溝は深いことを思い知らされることになった。


それでも昨年12月ころより、松永さんから直接会いたいという申し出をいただいていたが、そのころ書いておられた手記の進行を待ってからお会いしようと、私の方で先延ばしをお願いした。私は手記が進行するまでは、細かな問いかけを彼にすることをできるだけ避けることを決め、ことのは問題に関わる発言を一時封印しようと思った。私たちが直接会って直に互いの「誤解」を解くことがこの問題のもっとも早い解決につながるとして、一刻も早い対話を薦める方もいた。


ところが、手記の進行にしたがって、松永さんは多くの批判に晒され、批判ブログの追求の厳しさは、人間としての彼に、大きな精神的ダメージを与える結果にもなった。手記も中断された。こういう結果を招いたことに関して、私はその端緒を担ったことを自認しているし、過剰に彼を追い詰めてきた責任の一部を痛感している。


その一方で私は、松永さんを信じよう、信じようとしながらも、釈然としない思いをこの1年引きずってきた。それは河上イチロー時代に松永さんが1回脱会しながら、また教団に戻っているという過去があること、そして、松永さんが現役サマナであり烏山の教団施設に居住しながら、公党の懇談会に出席したことの意味が理解できなかったこと、泉あいさんの報道企画書に関与した部分の内容が明確でなかったこと等である。


疑問に思っていることは、昨年の夏に以下のエントリーに書いた。


●ことのはを巡る未解決の問題・備忘録---夏の宿題編


また、昨年の春から夏にかけての、自分の姿勢の限界については、以下のエントリーに書いている。


●ことのは・夏の終わりに


期せずして、先月になってから、松永さんは心身の調子を著しく崩し、遺書めいたエントリーを最後にネットからいったん「消えた」。


もう、これ以上話を引き伸ばすことは出来ないと思った私は2月23日に松永さんの家の近くまで行き、民主党懇談会以来1年4ケ月ぶりに松永さんと直接話すことができた。

その会話の記録は当然公開すべきであろうと思っていたが、松永さんの精神状態の問題もあるし、今まで踏んできた轍を繰り返さないためにも、それ以後対話の記録をまとめるにあたって、原稿を彼に見てもらいながら、細かな部分を補足したり、修正したりに時間がかかった。といっても、松永さんは、私の書いたものはほとんどそのままOKを出しており、これは書かないで欲しいとか、弁解を後から入れるとか、そういうことは、一切無かったと言ってもいい。むしろそのまま書いていいとおっしゃっていたのを、私の方で頼んで見てもらったというほうがいいと思う。その上で。



●個人情報に関わるところ、関係者にとってナーバスな事項の一部は相談の上割愛した。


●23日には双方共にメモも録音もしていなかったために、後から書き起こした内容を互いに確認するための時間も必要だったといってもいい。つまり、この「対話」は23日以後も調整しながら仔細を補いつつ作成していったものであり、話した言葉をそのまま記録にした、前回の泉あいさんのインタビューとは、相当に異なるやり方で作成された。このことの長短はあると思うが、今回はたまたまというか、必然的にそういう形になったと理解されたい。


●この記録が客観的な資料としてどれほど意味を持つのか、それは私にはわからない。あるいは大した意味はないのかもしれない。話しても話しても近づけない部分がまだあることも確かである。だが、おそらくこの問題を私たちが越えていく上で、避けては通れない、必要なプロセスであることだけは、双方で一致したと言ってもいいと思う。


●対話記録は当日メモも録音もしていなかったこともあり、松永さんにあらかじめ確認してもらっているが、その後記事にするにあたってつけたコメントはBigBangの雑感である。コメントはコメントしてわかるように表示することにする。


今までの経緯をおさらいするような形になって、前置きが長くなったが、これから2月23日に私たちがどんな話をしていたのか、何度かにわけて公開していきます。まず記録を全て書いたところで、付け加えるべきことがあるかもしれないけれど、というかきっとあるけれど、それは最後に。


では。