不謹慎かもしれない「フラット革命」書評のようなもの(1)

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「うーん、消えたな・・」
「消えましたね」
「書き終わる寸前、気持ちいいくらい消えた」
「・・・・・・」
「真引現象だな」
「?やっぱ・・ダメなんじゃないですか?この形式」
「ん?」
「これ書評でしょ?しかも『フラット革命』の」
「まあ、そんなようなものだな」
「佐々木さんに本送ってもらったんでしょう?こんな不真面目でいいんですか?」
「真面目だよ。いいじゃん、対話形式」
「消えたの暗示じゃないですか?・・・今までBigBangさんネタに走ってろくなことはなかったですよ」
「佐々木さん、洒落わかるし」
「そうですかねえ・・・」
「心配するな、辛木君」
「・・・・・誰?・・消えたままのほうが良かったんじゃないかな。この記事」
「うむ・・・書き直すほどのものではなかったかな」
「・・・・・・」






「で、『フラット革命』だけど」
「評判高いですね、全般的に」
「値段は安い」
「買ってないでしょ」
「ま、そのなんだ」
「え?」
セカンドライフは始めるとやめられない」
「(関係ないでしょ)それでずっと読まなかったんですか?」
「読んだよ。とっくに」
「で?」
「でって?」
「感想ですよ。なんか避けてませんか?書評書くの」
「つまり、インターネットのおかげでみんな言いたいことを言えるようになったということだ」
「・・・・・・」
「だけどそれは結構いろいろ問題もあると」
「・・・」
「でも避けられないんだからあきらめようと」
「それだけですか?」
「それだけじゃないさ」
「例えば?」
「まず1章はがんだるふさんの話。毎日新聞の『ネット君臨』。」
「『フラット化するマスメディア』ですね」
「この章だけじゃないんだけど」
「はい」
「この本ってそもそも、誰に向けて書かれたんだろうね」
「誰に?」
「うん、要はインターネットによって言論の手段が万人に開かれたと。」
「はい」
「で?」
「で?って・・それがマスメディアに衝撃を与えていると」
「そうだよね。佐々木さんは旧メディアが晒されるフラット化の衝撃の一例として、がんだるふ事件から書き起こしているんだけど、あれってさ、毎日の記者が馬鹿だったんでしょ?」
「またそんな・・・」
「だってさ、取材対象の調査をちゃんとやらないで、いい加減なことを書く記者なんていくらでもいたじゃない。それが一番のポイントでしょ」
「でもそれは・・」
「そう、ネットがなかったから泣き寝入りだったのが、インターネットによって自由な言論や反論の環境ができた。」
「ええ、だからそれが・・」
「匿名の発言の中にも鋭いものが出てきて、ブログ論壇というようなものができて」
「ええ」
「だからこれって、ガ島さんやR30さんが言っているような旧メディアのわからずちんのメディア関係者に向けて言ってるんでしょ?俺らじゃないでしょ」
「何でこういうときだけガ島さんやR30さんを引くんですか。悪口ばっかり言ってるくせに」
「だからさ、このへんは佐々木さんの言論はDJ研の流れに沿っているわけで、要は古巣のお馬鹿な頭の固いメディア関係者に警鐘を鳴らしているわけですよ。そうですか、じゃあ勝手にやってくださいみたいな、空々しさがいっつもこっちにあるんだよね」
「佐々木さんってDJやるんですか?」
「・・寒いよ、そのネタ。つまりさ、こんなこと書かれてもぎくっとするのは、そういう頭の固い『メディア関係者』だけじゃないの?」
「うーん、身内争いみたいな?」
「うん、メディアに対する信頼なんてさ、とっくに崩壊してるよ?夕べ、シルルも言ってた」
「シルルって?」
「夕べセカンドライフで会ったフランス人」
「知りませんよ。」
「とにかく、向いている方向がすごく特定業界的で、この本読まされる一般人はどうしたらいいのかよくわからない」
「はあ・・」
「フラット化ってもともとフリードマンとかが言い出したことで、経済や技術や企業経営の仕組みが急速にネットによってグローバル化していくってことでしょ。それならわかるんだ。産業世界の変化とか、関心高いよね。一般人にも。佐々木さんは、その中で言論の部分を突出してとらえて「フラット化」とずっと言っているんだけれど、それってひとえに旧来メディアへの批判にしか聞こえないわけ」
「でもそれは・・」
「そう、それはそれでわかるんだけど、例えばブログ論壇がこうなっているなんて言われてもさ、そこで起きている混乱や攻撃だとかをどうすればいいのかと」
「佐々木さんは、それも必然なので、越えていくしかないというか」
「それは我々に対してだよね?そのあたりはさらっと書き流して、顔はまず旧来メディアに向いているわけだよ。その言及はさ、確かにその世界にいた人だから厳しい。この本をがんだるふの件から書き起こしたのは、それがよく出ていると思う。だって彼にとって古巣の毎日新聞でしょ。これは取材者の追跡取材までしている。つまりポイントは旧メディア崩壊のような気がする。社会変革じゃなくてね。何かこのへんステークホルダールサンチマンを感じるのだ」
「・・・・・・パロディやらなくていいです」
「というわけで・・・そろそろ、セカンドライフに戻っていいかな?」
「待ってくださいって(もう・・) メディア批判は意味がない?」
「そうじゃなくて、向いている方向だよ。佐々木さんっていう人は、いつも半分メディアに軸足を置いてこちらを見、半分軸足をこちらに置いて旧メディアを向いているわけ。」
「ええ」
「オーマイの時もそうだったんだけど、そのバランスが実に微妙で、この『フラット革命』にそれがよく出ていると思うんだな。どうしてもそのバランス感覚みたいなところが気になっちゃうわけ。いや、批判しているわけじゃないですよ。」
「(だからパロはやめてください)この本には今までで一番時間をかけたそうです」
「うん、それはよくわかる。とくに「ことのは問題」に関する記述はすごくナーバスで丁寧。バランスがとれていると思う」
「にわかに突っ込めないですよね。細かい部分以外」
「うん、うん。直前に出た、あのDJ研の高価な本とは全然違うね」
「あれはログだそうですよ。」
「書き流し収録って感じだね。佐々木さんもそう言っていた。」
「ええ」
「旅の恥は書き捨てみたいな・・」
「またそういうこと言う・・・で、第二章ですが・・・・」
「まだやるの?」
「やらないんですか?」
「(続く)」
「え?(続けるの?これ)」
「悪い?やめる?」
「これで終わりはないでしょう。・・でも・いいのかなあ。」
「ほっぽり出すのもダメ、続けるのもダメ。
「・・・・」
「ドシタラヨカロ」
「やめなさいって。(時期が悪い)」
「・・・・・・セカンドライフに戻っていい?」
「・・・・・勝手にしてください(もう・・)」
「いや、これも芸風だから。辛木君」

「献本された」と書くこと


またまたどうでもいいようなことなのだけれど、よく「献本していただいた」とか、「献本ありがとうございました」とか書いている人いるんだけど、本を送られた側が「献本どうも」と書くことって、正しい日本語なんだろうか?っていうのは、「献本」というのは、本を献上するというような言葉であって、送る側からの送られる側への謙譲語でしょう?

だから送る側が送られる側に使うのはアリとしても、送られた側自身が「献本された」と書くのは、どーも私はひっかかるのですよ。これ見当違いですかねえ?違う?

というわけで献・・じゃなかったお送りいただいた書籍をまだうーんうーんと眺めている私です。(っていうかセカンドライフやりすぎ)

うーん


eshek氏の言いたいことは、整理させていただくとこうだろうか。


●今後の私=BigBangの発言は、関わった部分(ことのは問題関連のみ)に留めるべき。オウム問題全般や、特にM氏の内面に関わる発言は慎むべき。
●BigBangが関わった部分については、もしも手記が遅れても、それと切り離して一度総括を出すべき。あるいは出せるのではないか。
●「追求側」(だともう自分は思っていないが)としては、手記発表の前に、具体的に今後論じる「範囲」を明言するべき。さもないと延々と問題が続く恐れがある。
●BigBangはこの問題の「終わり」(収拾?)に向けて可能な限り協力すべき。


そうだとして私の答は(何度も自分では言っているつもりなんだが)


●「被害者の家族に・・」はスポンタさんの書き込みに答えたもの。それを扱うことが不適切であるとは思わない。
●私は「ことのは問題」で関わった人間であるので、当然今後もことのは問題関連を中心にした解決には、尽力するつもり。
●ただし、当該の問題で起きたことへの解答は、それ以前の時間軸の中で総括的に語るべきとM氏が判断している以上、こちらもここより前は知らないと、きっちりと線を引けるものではない。
●無駄にこの問題を煽り、拡散し広げていくようなことは慎みたいが、前もって自分の発言の範囲にフレームを設定する気はない。もし設定するとしても、その境界線が必ず問題になる。つまり空手形は出せない。
●M氏の手記発表のタイミングで、「ことのは問題」の時系列的な問題もよりクリアになるだろうから、それとリンクして私の過去記事の総見直しと関連箇所の訂正と加筆を行うつもり。一意に、過去に自分が書いたエントリーの範囲で私の責任は生じていると思うので、そこはなすべきであると思っている。(M氏にもお伝えしてある)
●手記の発表はそう遠くないという風に、Mさん自身から伺っている。ので、それが10年後になるというようなことは今は考えていない。
●M氏の手記とこちらのエントリーが相互にリンクされた段階で、あるいはこの問題のある節目を迎えられるのではないかと思っているが、それが万人にとって「終わり」という言葉にふさわしいものになるかどうかはわからない。
●私はM氏の総括後のブロガーとしての復帰を望んでいるし、今もその気持ちに変わりはない。


【補足】

「公」という言葉が何か拡大解釈されて一人歩きしているようだが、「公」とは当時ネット空間、つまりブロゴスフィアを指していた。特定の個人だけで集まって「内々に」説明を行い、解決をつけることは不明瞭であるので、ネット上で公開して議論しようという意味合いで発言した。(このあたりは佐々木氏の「フラット革命」でも採録されている)それが、私の姿勢や発言を自分で「公的」であると言ったとか、「自分が公だ」と言っているなどという曲解は、私の主張の歪曲を目的にする解釈であり全く根拠がない。従って今までも今後も、私の発言は(当然)「個」であり続けるし、それ以上でも以下でもない。従ってどのような勢力の(敵味方を問わず)イコンにもならないと言っているわけである。従って「「個」ならいいが「公」を組み立てるためにはこうすべき」・・などの用法はぴんとこない。



「終わり」を巡る話はこのくらいにしたいのですが。

「フラット革命」----佐々木俊尚氏からのメッセージが届いた

[rakuten:book:12104529:detail]



かねてから、Parsleyさんが触れておられた、佐々木俊尚氏の「フラット革命」を、ご本人からお送りいただいて本日入手した。Parsley氏のおっしゃったとおり、「ことのは問題」が最終章で実に60ページ以上にもわたって取り上げられており、氏の目から見た事実経過がかなり詳細に書き込まれている。M氏、泉あい氏、ume氏に加えて、私BigBangの行動や発言も多く登場している。以前直接お会いしたときに構想しておられたのは、この本だったのだと得心。
今到着したばかりでこれから拝読するが、私も知りえなかった事実も多く盛り込まれているようだ。分量に関しても、内容に関してもことのは問題に関する、佐々木さんの渾身のメッセージとして、まずは謹んで受け止めたいと思う。

添書に、「ことのは事件を再検証する」という前回私に語ったことをかたちにしたということ、この「事件」を真っ正直にとりあげたということ、私=BigBangの反応がどうであるか、恐ろしいような聞いてみたいような不安な気持ちであるということと、この本にはものすごく時間をかけて全力投球したつもりである、等の言葉があった。


これから読みます。




【追記】

ざっと一読。先のDJ研の本とはかなりニュアンスが異なる。このあたりは、時間の経過により、佐々木氏の中で「事件」が整理されたということだろうか。冷静な記述が目立つ。他にMr_Rancelot、R30、けろやん。等の名前が。また特筆すべきは、umeさんに会ってコメントをとり、佐々木氏があの解雇の「事件」を事実上事実認定した形になっている。このことの意味は大きいと思います。

※umeさんの件、歌田さんはいきなり切れちゃって話にならなかったからね。

「メディア・イノベーションの衝撃―爆発するパーソナル・コンテンツと溶解する新聞型ビジネス」に扱われた「ことのは問題」(5)-----徳力氏、ガ島氏、泉氏の認識 II

先の記事で引用を行ったが実際には当時の会話をそのまま収録して、おそらく余り手を入れずに掲載したであろうとは言え、実に不用意で不正確な表現が目立つ。

ブログの概念って、書いている人によって違うと思うんですよね。今回、個人的なメールのやりとりを、そのままなんの承諾もなく載せられたりプライベートで撮られたはずの写真も勝手に載せられたり、しかもそれを「ジャーナリスト」を名乗る人がしたりするのです。

泉さんの「メールのやりとりがそのまま乗せられた」とは、具体的にどの件を指すのだろうか。企画書作成のやりとりを公開した私かとも思ったが「ジャーナリストを名乗る」人であるということだから、これは私ではないだろう。もしも私であるとすれば私がジャーナリストを名乗っていることになる。後は考えつくのは、M氏の件を掲載した野田氏であろうか。しかし野田氏も泉氏とのやりとりを公開してはいたが、「個人的なメールのやりとり」を公開した事実はなかったように思う。以前に彼女が公開しておられたブログからの転載等は、一部は悪意のある行為だったと思うが、これもあてはまらない。してみると、彼女の言っている「個人的なメールのやりとり」とはどれを指すのだろうか。

それはともかく、泉さんという人は、「相手の許可をとらない限り」取材内容もブログに乗せるべきではないと固く信じ込んでいる人である。そうであれば、何を取材しても相手が嫌がる内容であれば、何一つ掲載できないことになる。「ことのは」問題では、この彼女の頑なさは悪い方向へ、悪い方向へと転がった。時には相手の不快を買ってでも、公開しなければならないことはあるはずで、その判断をするのが「ジャーナリスト」としての蹉跌を踏むことだと思うのだが。あるいは、ぎりぎりまで公開をするよう、相手を説得する努力も必要になろう。そのあたりへの姿勢はここでも伺えなかった。あるのは被害者意識のみであると思えた。

オウムの逃走犯を彼女に重ねて掲示板やブログに書いた人物は、紛れもなく糾弾されるべきであるし、彼女は断固とした処置をとるべきだった。しかし、そのことが「ことのは問題」の本質ではない。被害のみを全面に立てて抗議することで、本来の筋を曖昧にしてはならないのではないだろうか。

徳力

たとえば”オウム真理教は悪だ”と純粋に信じ込んでいる、それが正義だと思い込んでいる人たちがバッシングをするんですよね。それは悪意をもってやっているというよりは、実は彼らにとって”正義”なのです。
これはものすごく難しい問題で、僕はNTTでIRをやっていたので、株主の苦情にはさんざん悩まされてきたのですが、彼らにとっては苦情でも、彼らにとっては”正義”なんですよね。ブログはその正義を振りかざせる道具になっているわけです。日銀の福井俊彦総裁が村上ファンドに出資していたとして叩かれていますが、経済理論がわかっている人にとっては「冷静に見ればしょうがない」となるんですが、一般の視点から見れば「偉い人たちが儲けるのはよくないじゃん」「やっぱり悪いことしたら辞めるべきでしょ」・・・そんな風に正義が積み重なると、ああなってしまうのではないでしょうか。

徳力さんは、民主党懇談会のメンバーだったが、当時ことのは問題に関しては、殆ど完全スルーに近い姿勢を貫いた人である。それはそれ、本人の考え方の自由であるが、ここでなされた発言は私には非常に珍妙な気がした。時折メールもいただいており、ここで批判するのは心苦しいが

たとえば”オウム真理教は悪だ”と純粋に信じ込んでいる、それが正義だと思い込んでいる人たちがバッシングをするんですよね

「思い込んでいる人たちがバッシング」とあるので、その批判的言辞から、徳力さんは「オウム真理教は悪だ」とは「信じ込んでいない」のだろうか。悪であると何が何でも思い込まなければいけないというわけではない。オウムには、単純に切り捨てられない様々な側面があり、最近中沢新一氏が、島田さんから強烈に批判を受けていることでも明らかである。(中沢氏の考え方もあるだろうという意味で)しかし、そう言うのであれば、つまり仮に「悪である」という見方が一面的であると思うのであれば、それについてどこかで発言すべきだろう。弾さんのように。

しかもその後の例示にいたっては、少々苦笑した。

僕はNTTでIRをやっていたので、株主の苦情にはさんざん悩まされてきたのですが、彼らにとっては苦情でも、彼らにとっては”正義”なんですよね。

徳力さん。オウムの行ったことは大量殺人であり、犯罪です。「NTTの株主の苦情に悩まされた自分」は到底本件の例示の対象にはなり得ません。

後、細かいけれど次。

日銀の福井俊彦総裁が村上ファンドに出資していたとして叩かれていますが、経済理論がわかっている人にとっては「冷静に見ればしょうがない」となるんですが、一般の視点から見れば「偉い人たちが儲けるのはよくないじゃん」「やっぱり悪いことしたら辞めるべきでしょ」・・・そんな風に正義が積み重なると、ああなってしまうのではないでしょうか。

これもおかしな認識だと思います。「経済理論がわかっている人」というのが、どういう人を指すのかわかりませんが、あるいは「違法ではないのに」という主張のあった人たちのことでしょうか。福井氏の場合は、国家の財務運営の総責任者の地位にある人が、私財を一ファンドに投じることで、私人としての投資思惑が混入し、不当かつ不公正な経済政策を実施するリスクが生じることに関して、公人として批判されたのであり、経済理論の問題ではありません。政治的・法的な議論であるべきだとは思いますが、まるで批判者が経済的無知であるかのような言い分は、外れています。

まして

そんな風に正義が積み重なると、ああなってしまうのではないでしょうか。

これをブログや「ことのは」における「正義のいかがわしさ」のようなところに結びつけるのは的外れです。

「メディア・イノベーションの衝撃―爆発するパーソナル・コンテンツと溶解する新聞型ビジネス」に扱われた「ことのは問題」(2)-----佐々木氏の認識


※いろいろコメントいただいていますが、細かな部分を除いて、基本的にはこの件エントリーで対応させていただきます。


今回引用部においては、佐々木俊尚氏の論理に強引な印象が目立った。

ことのは問題”でネット上で議論をしたときに、僕が、「ブロガーもジャーナリストも同じ土俵、同じ地平線で言論が見えているんだから、その責任も権利も同じだろう」みたいなことを言ったら、「いや、ジャーナリストとブロガーは違うんだ。ジャーナリストには社会的責任があるだろう」と多くの人たちが返してきた。要するに”自分はジャーナリストではないから安全な場所にいるのだ”ということです。

「ジャーナリスト」も「ブロガー」も責任も権利も同じであるという。これをこのまま読めば、つまりジャーナリスト特有の責任や権利を、認めないかのように読める。職業的ジャーナリストの社会的な責務の自覚に、もっとも敏感であるのは当のジャーナリスト自身かと認識してきたが、佐々木さんは、これを否定しているのだろうか。そういえば、先にお会いしたときにも、プロのジャーナリストがことのは問題の本質に向き合わず「逃げた」印象がある旨、お伝えしたが、「BBさん、いったいBBさんの言うジャーナリストって何ですか?」とか「ジャーナリストであれば全ての問題に向き合わなければならないんですか?」と返されておられたように記憶している。その延長にこの発言があるのだろうか。氏の言う「ネットのフラットな言論世界」とは、プロもアマチュアも、全ての言論が均等に義務と責任を負う世界らしい。私はこれは非常に非現実的に思える。一介のブロガーと、職業的ジャーナリストとでは、その素養も、かけられる費用も時間も、意識も均等ではないはずである。たまたまネットに投稿することが誰にでも出来る時代になったからと言って、義務も責任も平等であると言うなら、「ジャーナリスト」など必要あるまい。ジャーナリスト無用論を唱えるというなら、それは別であるが。


もっと珍妙に思えるのは唐突に出てくる、太字で示した次の一節である。

要するに”自分はジャーナリストではないから安全な場所にいるのだ”ということです。

「要するに」という接頭語が極めて乱暴に使われているが、(何が要するになの?)なぜ職業的ジャーナリストの責任を問うことが、「自分は・・安全な場所にいるということ」になるのだろうか。誰かがそのような主張を彼に対してしたのだろうか。俺は安全な場所にいるよ、と?匿名だから言いたい放題をやるよ、と?ブロガーはあらゆる情報を職業的ジャーナリストと同じだけの責任と自覚と準備を行って書けということだろうか。これではブログを書くことの意味を根本から見直さなければとても賛同できる話ではない。真意が読めない。

しかし、今何が起きているかというと、そのブロガーたちが炎上していたりする。要するに「ブロガーという名を隠れ蓑にして、言いたい放題してきて、おまえは、いったいどういうやつだ」と、またメタ連邦軍みたいなのが出現してきて、そいつらに叩かれたりしているわけですよ。

太字部分は、どう読んでも「言いたい放題」してきたブロガーが、その後実名や住所を晒されたり、職場に嫌がらせの電話などされたりしたことも、「自業自得」であるという揶揄を感じるがどうだろうか。どのブロガーについて語っているのかぼかしてあるが、該当すると思われる人物は私を含めて数名であろう。「メタ連邦軍みたいなの」というのは、私には若干2名のことしか頭に浮かばないが、佐々木氏に言わせればどっちも「身から出た錆」ということになろうか。

さらに連邦軍を名乗ることを批判する”メタ連邦軍”とも呼べる存在が登場。絶対的な正義を振りかざし批判をしあう状況を佐々木俊尚氏は「フラットの呪縛」と呼んだ。(脚注より)

どう呼ぼうとご自由だが、「連邦軍」と「メタ連邦軍」は「絶対的正義を振りかざし批判をしあって」いたのか?あれが?(苦笑)お前のところに右翼の街宣車が行くかもだぞなどと2ちゃんねるに書くことは、「絶対的正義」を念ずる余りの所業ですか? どうも佐々木さんの論立ては「最初に自論ありき」で現象をそれに当てはめているような傾向が見られる。(これは、けろやん。が言及していた通り)そもそも「連邦軍ガンダムの・・・」などと、わざわざ脚注に書くことに何の意味があるのだろうか。


ことのは問題」がある種の「火事」であったとすれば、その火事の原因を調査し、事実について言及することが、私の想像する「ジャーナリストの使命」だと思うのだが、氏はその火事の周りに集まった人々を全て一緒にして「野次馬」として扱い、その右往左往の人間模様を評し続けているように思えてならない。

つまり佐々木氏の言論は「フラットの周囲」を周回するが、決して中心=本質にはやって来ない。つまり「ことのは問題」自体には言及しないのである。批判も価値判断もしない。「メタ連邦軍」という言い方も始めて聞いたが、「連邦軍」という用語や、関係者の炎上などスキャンダラスな面の分析に関心が向いているようである。(これは佐々木氏だけではなく、デジャ研の他のメンバーにも感じることである)もちろんどこに問題意識や興味を持つかは、個人の自由であるが、これほどの時間が経ってから、市販本で堂々と表明されるその姿勢自体には、深く失望を感じる。


実際、今回の脚注でも「M氏が自民党民主党のブロガー懇談会に出席していたことに対して「過去を隠して出席した」と批判された。」とあるが、(これはM氏を再度批判するために書くわけではない)懇談会当時M氏は現役の信者だった。問われたのは「過去を隠した」ことだけではない。当時の身分と政治的な活動(にみえるもの)の関係の説明が求められたのである。果たして佐々木さん始めデジャ研のメンバーは、この事実関係をどこまで正確に把握しているのだろうか。私はこのレベルで既に事実誤認を行っている方が多数なのではないかとさえ思える。


「ことのは」関連の言及部分は他にもある。そこでは、出席者の1人だった徳力さんや、ガ島氏のこの件に関する考え方が見えて興味深い。次エントリーで引用する。

「メディア・イノベーションの衝撃―爆発するパーソナル・コンテンツと溶解する新聞型ビジネス」に扱われた「ことのは問題」(3)-----徳力氏、ガ島氏、泉氏の認識 I


先の引用部にも記述のあった、「第7部 ディスカッション」から引用する。


P.229 第7部  ディスカッション 

■ブログはポピュリズムの増幅装置に


徳力

まじめにブログを書いている人にとっては、この前の泉さんの事件*は傷つけられるものでしょう。オウム真理教がらみの容疑者の写真を適当に集めて並べ、泉さんが菊池直子に似ているとされた事件です。やっぱりネットってこうなっちゃうんだねと。


ブログの概念って、書いている人によって違うと思うんですよね。今回、個人的なメールのやりとりを、そのままなんの承諾もなく載せられたり
プライベートで撮られたはずの写真も勝手に載せられたり、しかもそれを「ジャーナリスト」を名乗る人がしたりするのです。


藤代

一般ユーザーだけでなく、プロのジャーナリストのかかわりにも問題がありましたね。


私は取材活動をするのにブログを使っているから、載せる載せないのルールを決めている。どこまで載せていいのか、情報を公開していいのかというのは、もっと神経質になってもいいのではないかと考えています。ブログに限らず、ミクシイの日記でも。ミクシイは限られた人しか見ないものだと思われがちですが、あれだけのユーザー数があるわけなので、オープンな場所だと思うんですけれど。


藤代


検索サイトも、”増幅”に一役買っています。「藤代裕之」で検索すると、私のプライバシーや仕事について勝手に想像して、批判的なことを書いているブログが上位に出てきます。これを読んで「藤代裕之」という人物像について固定観念を持たれると困ってしまうわけです。仮にオウム信者の名前で検索したら、泉さんの写真が検索上位にヒットしてしまうと、まったく別人であるにも関わらず、検索した人が「実は泉さんだったんだ」と信じてしまうかもしれない。そうなったら、「炎上や批判をネットで書かれないように、一人ひとりが注意して頑張っていきましょう」というような”掛け声的に個々人のモラルに訴える”というようなものでは何ら役に立たない。日記だろうが、正義を語るジャーナリズムだろうが、メディアを持っている、表現しているという点では完全にイーブンなんです。


徳力

たとえば”オウム真理教は悪だ”と純粋に信じ込んでいる、それが正義だと思い込んでいる人たちがバッシングをするんですよね。それは悪意をもってやっているというよりは、実は彼らにとって”正義”なのです。
これはものすごく難しい問題で、僕はNTTでIRをやっていたので、株主の苦情にはさんざん悩まされてきたのですが、彼らにとっては苦情でも、彼らにとっては”正義”なんですよね。ブログはその正義を振りかざせる道具になっているわけです。日銀の福井俊彦総裁が村上ファンドに出資していたとして叩かれていますが、経済理論がわかっている人にとっては「冷静に見ればしょうがない」となるんですが、一般の視点から見れば「偉い人たちが儲けるのはよくないじゃん」「やっぱり悪いことしたら辞めるべきでしょ」・・・そんな風に正義が積み重なると、ああなってしまうのではないでしょうか。

藤代

炎上するきっかけは、元記事がまずいということが多いと思いますが、泉さんのケースが深刻なのは、”ある種の正義と別の正義がぶつかった”という構図にあります。
・・・・・・・・・・・
ただし今回のオウム問題に関しては、”主義主張”の部分でぶつかっているというところが、今までにはなかった要素だといえます。いままでは炎上対策として、コミュニケーションスキルを磨くというところに力点が置かれてきましたが、主義主張のぶつかり合いだと、それは通用しない。その意味では、大変エポックメイキングな事件だったと感じています。

泉さんの事件(脚注より)

2006年3月に有名ブロガーが実はオウム真理教の幹部だったことが露見したことをきっかけに、その幹部へのインタビューを敢行した泉あい氏がオウム関係者ではないかと憶測を呼んだ事件。泉氏の友人にまで憶測による非難があったという。