「メディア・イノベーションの衝撃―爆発するパーソナル・コンテンツと溶解する新聞型ビジネス」に扱われた「ことのは問題」(5)-----徳力氏、ガ島氏、泉氏の認識 II

先の記事で引用を行ったが実際には当時の会話をそのまま収録して、おそらく余り手を入れずに掲載したであろうとは言え、実に不用意で不正確な表現が目立つ。

ブログの概念って、書いている人によって違うと思うんですよね。今回、個人的なメールのやりとりを、そのままなんの承諾もなく載せられたりプライベートで撮られたはずの写真も勝手に載せられたり、しかもそれを「ジャーナリスト」を名乗る人がしたりするのです。

泉さんの「メールのやりとりがそのまま乗せられた」とは、具体的にどの件を指すのだろうか。企画書作成のやりとりを公開した私かとも思ったが「ジャーナリストを名乗る」人であるということだから、これは私ではないだろう。もしも私であるとすれば私がジャーナリストを名乗っていることになる。後は考えつくのは、M氏の件を掲載した野田氏であろうか。しかし野田氏も泉氏とのやりとりを公開してはいたが、「個人的なメールのやりとり」を公開した事実はなかったように思う。以前に彼女が公開しておられたブログからの転載等は、一部は悪意のある行為だったと思うが、これもあてはまらない。してみると、彼女の言っている「個人的なメールのやりとり」とはどれを指すのだろうか。

それはともかく、泉さんという人は、「相手の許可をとらない限り」取材内容もブログに乗せるべきではないと固く信じ込んでいる人である。そうであれば、何を取材しても相手が嫌がる内容であれば、何一つ掲載できないことになる。「ことのは」問題では、この彼女の頑なさは悪い方向へ、悪い方向へと転がった。時には相手の不快を買ってでも、公開しなければならないことはあるはずで、その判断をするのが「ジャーナリスト」としての蹉跌を踏むことだと思うのだが。あるいは、ぎりぎりまで公開をするよう、相手を説得する努力も必要になろう。そのあたりへの姿勢はここでも伺えなかった。あるのは被害者意識のみであると思えた。

オウムの逃走犯を彼女に重ねて掲示板やブログに書いた人物は、紛れもなく糾弾されるべきであるし、彼女は断固とした処置をとるべきだった。しかし、そのことが「ことのは問題」の本質ではない。被害のみを全面に立てて抗議することで、本来の筋を曖昧にしてはならないのではないだろうか。

徳力

たとえば”オウム真理教は悪だ”と純粋に信じ込んでいる、それが正義だと思い込んでいる人たちがバッシングをするんですよね。それは悪意をもってやっているというよりは、実は彼らにとって”正義”なのです。
これはものすごく難しい問題で、僕はNTTでIRをやっていたので、株主の苦情にはさんざん悩まされてきたのですが、彼らにとっては苦情でも、彼らにとっては”正義”なんですよね。ブログはその正義を振りかざせる道具になっているわけです。日銀の福井俊彦総裁が村上ファンドに出資していたとして叩かれていますが、経済理論がわかっている人にとっては「冷静に見ればしょうがない」となるんですが、一般の視点から見れば「偉い人たちが儲けるのはよくないじゃん」「やっぱり悪いことしたら辞めるべきでしょ」・・・そんな風に正義が積み重なると、ああなってしまうのではないでしょうか。

徳力さんは、民主党懇談会のメンバーだったが、当時ことのは問題に関しては、殆ど完全スルーに近い姿勢を貫いた人である。それはそれ、本人の考え方の自由であるが、ここでなされた発言は私には非常に珍妙な気がした。時折メールもいただいており、ここで批判するのは心苦しいが

たとえば”オウム真理教は悪だ”と純粋に信じ込んでいる、それが正義だと思い込んでいる人たちがバッシングをするんですよね

「思い込んでいる人たちがバッシング」とあるので、その批判的言辞から、徳力さんは「オウム真理教は悪だ」とは「信じ込んでいない」のだろうか。悪であると何が何でも思い込まなければいけないというわけではない。オウムには、単純に切り捨てられない様々な側面があり、最近中沢新一氏が、島田さんから強烈に批判を受けていることでも明らかである。(中沢氏の考え方もあるだろうという意味で)しかし、そう言うのであれば、つまり仮に「悪である」という見方が一面的であると思うのであれば、それについてどこかで発言すべきだろう。弾さんのように。

しかもその後の例示にいたっては、少々苦笑した。

僕はNTTでIRをやっていたので、株主の苦情にはさんざん悩まされてきたのですが、彼らにとっては苦情でも、彼らにとっては”正義”なんですよね。

徳力さん。オウムの行ったことは大量殺人であり、犯罪です。「NTTの株主の苦情に悩まされた自分」は到底本件の例示の対象にはなり得ません。

後、細かいけれど次。

日銀の福井俊彦総裁が村上ファンドに出資していたとして叩かれていますが、経済理論がわかっている人にとっては「冷静に見ればしょうがない」となるんですが、一般の視点から見れば「偉い人たちが儲けるのはよくないじゃん」「やっぱり悪いことしたら辞めるべきでしょ」・・・そんな風に正義が積み重なると、ああなってしまうのではないでしょうか。

これもおかしな認識だと思います。「経済理論がわかっている人」というのが、どういう人を指すのかわかりませんが、あるいは「違法ではないのに」という主張のあった人たちのことでしょうか。福井氏の場合は、国家の財務運営の総責任者の地位にある人が、私財を一ファンドに投じることで、私人としての投資思惑が混入し、不当かつ不公正な経済政策を実施するリスクが生じることに関して、公人として批判されたのであり、経済理論の問題ではありません。政治的・法的な議論であるべきだとは思いますが、まるで批判者が経済的無知であるかのような言い分は、外れています。

まして

そんな風に正義が積み重なると、ああなってしまうのではないでしょうか。

これをブログや「ことのは」における「正義のいかがわしさ」のようなところに結びつけるのは的外れです。