「メディア・イノベーションの衝撃―爆発するパーソナル・コンテンツと溶解する新聞型ビジネス」に扱われた「ことのは問題」(3)-----徳力氏、ガ島氏、泉氏の認識 I


先の引用部にも記述のあった、「第7部 ディスカッション」から引用する。


P.229 第7部  ディスカッション 

■ブログはポピュリズムの増幅装置に


徳力

まじめにブログを書いている人にとっては、この前の泉さんの事件*は傷つけられるものでしょう。オウム真理教がらみの容疑者の写真を適当に集めて並べ、泉さんが菊池直子に似ているとされた事件です。やっぱりネットってこうなっちゃうんだねと。


ブログの概念って、書いている人によって違うと思うんですよね。今回、個人的なメールのやりとりを、そのままなんの承諾もなく載せられたり
プライベートで撮られたはずの写真も勝手に載せられたり、しかもそれを「ジャーナリスト」を名乗る人がしたりするのです。


藤代

一般ユーザーだけでなく、プロのジャーナリストのかかわりにも問題がありましたね。


私は取材活動をするのにブログを使っているから、載せる載せないのルールを決めている。どこまで載せていいのか、情報を公開していいのかというのは、もっと神経質になってもいいのではないかと考えています。ブログに限らず、ミクシイの日記でも。ミクシイは限られた人しか見ないものだと思われがちですが、あれだけのユーザー数があるわけなので、オープンな場所だと思うんですけれど。


藤代


検索サイトも、”増幅”に一役買っています。「藤代裕之」で検索すると、私のプライバシーや仕事について勝手に想像して、批判的なことを書いているブログが上位に出てきます。これを読んで「藤代裕之」という人物像について固定観念を持たれると困ってしまうわけです。仮にオウム信者の名前で検索したら、泉さんの写真が検索上位にヒットしてしまうと、まったく別人であるにも関わらず、検索した人が「実は泉さんだったんだ」と信じてしまうかもしれない。そうなったら、「炎上や批判をネットで書かれないように、一人ひとりが注意して頑張っていきましょう」というような”掛け声的に個々人のモラルに訴える”というようなものでは何ら役に立たない。日記だろうが、正義を語るジャーナリズムだろうが、メディアを持っている、表現しているという点では完全にイーブンなんです。


徳力

たとえば”オウム真理教は悪だ”と純粋に信じ込んでいる、それが正義だと思い込んでいる人たちがバッシングをするんですよね。それは悪意をもってやっているというよりは、実は彼らにとって”正義”なのです。
これはものすごく難しい問題で、僕はNTTでIRをやっていたので、株主の苦情にはさんざん悩まされてきたのですが、彼らにとっては苦情でも、彼らにとっては”正義”なんですよね。ブログはその正義を振りかざせる道具になっているわけです。日銀の福井俊彦総裁が村上ファンドに出資していたとして叩かれていますが、経済理論がわかっている人にとっては「冷静に見ればしょうがない」となるんですが、一般の視点から見れば「偉い人たちが儲けるのはよくないじゃん」「やっぱり悪いことしたら辞めるべきでしょ」・・・そんな風に正義が積み重なると、ああなってしまうのではないでしょうか。

藤代

炎上するきっかけは、元記事がまずいということが多いと思いますが、泉さんのケースが深刻なのは、”ある種の正義と別の正義がぶつかった”という構図にあります。
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ただし今回のオウム問題に関しては、”主義主張”の部分でぶつかっているというところが、今までにはなかった要素だといえます。いままでは炎上対策として、コミュニケーションスキルを磨くというところに力点が置かれてきましたが、主義主張のぶつかり合いだと、それは通用しない。その意味では、大変エポックメイキングな事件だったと感じています。

泉さんの事件(脚注より)

2006年3月に有名ブロガーが実はオウム真理教の幹部だったことが露見したことをきっかけに、その幹部へのインタビューを敢行した泉あい氏がオウム関係者ではないかと憶測を呼んだ事件。泉氏の友人にまで憶測による非難があったという。