「メディア・イノベーションの衝撃―爆発するパーソナル・コンテンツと溶解する新聞型ビジネス」に扱われた「ことのは問題」(2)-----佐々木氏の認識


※いろいろコメントいただいていますが、細かな部分を除いて、基本的にはこの件エントリーで対応させていただきます。


今回引用部においては、佐々木俊尚氏の論理に強引な印象が目立った。

ことのは問題”でネット上で議論をしたときに、僕が、「ブロガーもジャーナリストも同じ土俵、同じ地平線で言論が見えているんだから、その責任も権利も同じだろう」みたいなことを言ったら、「いや、ジャーナリストとブロガーは違うんだ。ジャーナリストには社会的責任があるだろう」と多くの人たちが返してきた。要するに”自分はジャーナリストではないから安全な場所にいるのだ”ということです。

「ジャーナリスト」も「ブロガー」も責任も権利も同じであるという。これをこのまま読めば、つまりジャーナリスト特有の責任や権利を、認めないかのように読める。職業的ジャーナリストの社会的な責務の自覚に、もっとも敏感であるのは当のジャーナリスト自身かと認識してきたが、佐々木さんは、これを否定しているのだろうか。そういえば、先にお会いしたときにも、プロのジャーナリストがことのは問題の本質に向き合わず「逃げた」印象がある旨、お伝えしたが、「BBさん、いったいBBさんの言うジャーナリストって何ですか?」とか「ジャーナリストであれば全ての問題に向き合わなければならないんですか?」と返されておられたように記憶している。その延長にこの発言があるのだろうか。氏の言う「ネットのフラットな言論世界」とは、プロもアマチュアも、全ての言論が均等に義務と責任を負う世界らしい。私はこれは非常に非現実的に思える。一介のブロガーと、職業的ジャーナリストとでは、その素養も、かけられる費用も時間も、意識も均等ではないはずである。たまたまネットに投稿することが誰にでも出来る時代になったからと言って、義務も責任も平等であると言うなら、「ジャーナリスト」など必要あるまい。ジャーナリスト無用論を唱えるというなら、それは別であるが。


もっと珍妙に思えるのは唐突に出てくる、太字で示した次の一節である。

要するに”自分はジャーナリストではないから安全な場所にいるのだ”ということです。

「要するに」という接頭語が極めて乱暴に使われているが、(何が要するになの?)なぜ職業的ジャーナリストの責任を問うことが、「自分は・・安全な場所にいるということ」になるのだろうか。誰かがそのような主張を彼に対してしたのだろうか。俺は安全な場所にいるよ、と?匿名だから言いたい放題をやるよ、と?ブロガーはあらゆる情報を職業的ジャーナリストと同じだけの責任と自覚と準備を行って書けということだろうか。これではブログを書くことの意味を根本から見直さなければとても賛同できる話ではない。真意が読めない。

しかし、今何が起きているかというと、そのブロガーたちが炎上していたりする。要するに「ブロガーという名を隠れ蓑にして、言いたい放題してきて、おまえは、いったいどういうやつだ」と、またメタ連邦軍みたいなのが出現してきて、そいつらに叩かれたりしているわけですよ。

太字部分は、どう読んでも「言いたい放題」してきたブロガーが、その後実名や住所を晒されたり、職場に嫌がらせの電話などされたりしたことも、「自業自得」であるという揶揄を感じるがどうだろうか。どのブロガーについて語っているのかぼかしてあるが、該当すると思われる人物は私を含めて数名であろう。「メタ連邦軍みたいなの」というのは、私には若干2名のことしか頭に浮かばないが、佐々木氏に言わせればどっちも「身から出た錆」ということになろうか。

さらに連邦軍を名乗ることを批判する”メタ連邦軍”とも呼べる存在が登場。絶対的な正義を振りかざし批判をしあう状況を佐々木俊尚氏は「フラットの呪縛」と呼んだ。(脚注より)

どう呼ぼうとご自由だが、「連邦軍」と「メタ連邦軍」は「絶対的正義を振りかざし批判をしあって」いたのか?あれが?(苦笑)お前のところに右翼の街宣車が行くかもだぞなどと2ちゃんねるに書くことは、「絶対的正義」を念ずる余りの所業ですか? どうも佐々木さんの論立ては「最初に自論ありき」で現象をそれに当てはめているような傾向が見られる。(これは、けろやん。が言及していた通り)そもそも「連邦軍ガンダムの・・・」などと、わざわざ脚注に書くことに何の意味があるのだろうか。


ことのは問題」がある種の「火事」であったとすれば、その火事の原因を調査し、事実について言及することが、私の想像する「ジャーナリストの使命」だと思うのだが、氏はその火事の周りに集まった人々を全て一緒にして「野次馬」として扱い、その右往左往の人間模様を評し続けているように思えてならない。

つまり佐々木氏の言論は「フラットの周囲」を周回するが、決して中心=本質にはやって来ない。つまり「ことのは問題」自体には言及しないのである。批判も価値判断もしない。「メタ連邦軍」という言い方も始めて聞いたが、「連邦軍」という用語や、関係者の炎上などスキャンダラスな面の分析に関心が向いているようである。(これは佐々木氏だけではなく、デジャ研の他のメンバーにも感じることである)もちろんどこに問題意識や興味を持つかは、個人の自由であるが、これほどの時間が経ってから、市販本で堂々と表明されるその姿勢自体には、深く失望を感じる。


実際、今回の脚注でも「M氏が自民党民主党のブロガー懇談会に出席していたことに対して「過去を隠して出席した」と批判された。」とあるが、(これはM氏を再度批判するために書くわけではない)懇談会当時M氏は現役の信者だった。問われたのは「過去を隠した」ことだけではない。当時の身分と政治的な活動(にみえるもの)の関係の説明が求められたのである。果たして佐々木さん始めデジャ研のメンバーは、この事実関係をどこまで正確に把握しているのだろうか。私はこのレベルで既に事実誤認を行っている方が多数なのではないかとさえ思える。


「ことのは」関連の言及部分は他にもある。そこでは、出席者の1人だった徳力さんや、ガ島氏のこの件に関する考え方が見えて興味深い。次エントリーで引用する。