うんざりはしているが、絶望はしていない


深読みをされる方が若干おられるようなので、少し書く。

松永さんがネットに復帰してこられるかどうかは、もちろん松永さん自身が決めることであるけれど、今のところ僕はそれを信じて疑っていない。そしてそれを望んでいる。それは前にも書いたと思う。で、松永さんののことだから、おそらく今度戻ってこられる時には、相応の成果をもって帰ってこられると思う。その成果の中に盛り込まれるものを今は辛抱強く待とうと思っている。その成果がどういう評価を受けるかはわからないが、人が力を尽くして提出したものに対しては、批判することも含めて我々には正面から受け止めるべき理由があろう。

その正確な時期については、僕がコメントすべきことでもないし、わかっているわけでもない。ただ、予想よりも時間がかかっていることは事実だし、それを急がせる権利もない。

そもそも「ことのはを巡る問題」と呼ばれたものは、誰かのために急速に終息させなければならないという立場には、僕は立っていない。誰か1人に責任を負わせるとか、そういう性質のものではないと思っている。単なるネット上の風評被害であるという思いも持っていない。で、もしもこれについて、続けて考えていこうとする心の動きが、誰か1人のところにあるのであれば、それは続いていく。それは誰にも止められない。で、当の僕にもまだ終わったという認識はないが、それは特定の個人を攻撃し続ける混乱状況の継続を意味するものではない。

仮に、終息のありかたのようなものが、誰かの心にあったとして、それはそのとおりに進むわけもない。自己が何らかの信念を持つことは結構だが、多くの場合ことはそのとおりには進まない。あなたと私は違う人間なのであるし、その議論=つまりことをどこかの定点にたどりつかせようという試み はそろそろ不毛な領域にさしかかっている。終わりを急ぐ人たちは、なぜ急ぐのか。否、終わらせようという不自然な試みが、一層ことを無用に再燃させるのではないか。

問題なのは、個人の住居や職分にまで踏み込んで不当かつ不法に圧力をかけ、言論を抑えようとする者たちの存在だろう。これは、問題の本質とはある意味別の次元である。意見の如何によらず、その行使者が誰であっても、その対象が誰であっても、その行為については許せないと思っている。というよりそれは不法行為であるので、卑劣で罰されるべき者はいずれ罰されるだろう。

言論を提示した人物がどこの誰なのかということではなく、何を意図しているのかということが重要だということを、何度も言うのもうんざりしてきた。(もちろん言論の裏に何かの意図された悪意や背景があれば別である)その人物の容姿がどうとか、職業がどうとか、家庭がどうとか、学歴がどうとか、収入がどうとか、俄か評論家気どりの下劣さで動いていく世間に僕はうんざりしているが、同様にネットにおけるそれにもうんざりしている。

そうした「下劣な世間」は、自分が生まれる前に、自分より前の世代が作ってきたと思っていた時代があった。心が芽生えた時、学園紛争はもう終わっていたが、おそらく上の世代は社会体制だけではなく、そうしたものにも異議を唱えたのだろうと、わからないながらも、漠然と思っていた。いわゆる年長性悪説である。

年長性悪説をとるならば、時間が経過すればそうしたことたちは、上の世代とともに消えていくのだろうと思っていた。だが、今では、そうではないことを、よく知っている。僕はつくづくこのことにうんざりしているし、飽き飽きしている。だが、自己を救う意思はさらさらないので、それはどうでもいい。つまり、僕にとって、僕がうんざりしているかどうかなどということは、どうでもいい些細なことであるので、あまり書く気もしない。

もちろん、そんな世界ばかりであると悲観する必要はない。このところ、BarTubeなどに出入りしている若いネット世代の友人とよく話をするようになったが、自己中心的であることが、いつも醜いということではないことがよくわかる。まっしぐらに新しい技術や新しい世界に向かっている人たちの表情をを見ると、やはりいいなあと思うし、羨ましいとも思う。少し(残念だが)そう素直に思うようになった自分の年齢のことも考える。


ここで誤解されると困るが、別に今更何かに絶望しているわけでもない。

世はこういうものだということは、知りすぎている。
どうということもない。うんざりはしているが、それはそれだけのことだ。


【追記】

松永さんと直接お会いして、時間をかけて話し合えたことは有意義だったけれど、それによって彼が僕のすべてを許したわけでもないだろうし、互いの誤解のすべてが消えたわけでもないだろう。あれで何かが決定的に終わったわけではない。そもそも、イチゴだかバナナだか持って見舞いに行きさえすれば解決するようなことであれば、最初から起こさなければいいのである。私たちにとって有意義なものがもしあったとすれば、時間をかけて直接話ができたこと、そしてそのことで今後の歩み方への大まかな合意ができたことだろうと思う。それは、敢えて言うとようやく「始め方」を決めることができただけであり、「終わり方」を決めることができたわけではないと思っている。