水底に沈める


書く対象によって、そのエントリーの醸し出す空気が毎回一変するなら、それを決しているのはおそらく「対象」の方であって、書き手ではないのだろう。唾棄すべきものを書いて、唾棄すべき不快感しか残らないなら、それはそこに、その「唾棄すべきもの」が、あなたの傍らに、そのまま置かれているだけなのだ。いや、あなたや私自体が、元来「唾棄すべきもの」であってはならないということを言いたいのではない。むしろ、そうしたもの「にすら」なれていない、未だ何者でもない状態なのではないか。


生ゴミを持ってきて家の前に置いたからと言って、それを持ってきたあなたが生ゴミであるというわけではないし、あなたの家がゴミ捨て場になったというわけではない。それは当り前なのだが、実はその状態のままでは、「あなたは生ゴミにすらなれていない」とも言えるのではないだろうか。

つまり、あなたは意志をもって生ゴミになることを選択したわけではない。かといって、生ゴミになることをはっきりと拒絶したわけでもない。


ただ、生ゴミを持ってきてそこに置いた。それだけのことだ。
光り輝くダイヤの指輪を持ってそこに置くことと、生ゴミを置いたとき。「あなた」や「私」の本質に与える影響の違いがあるとすれば、それは何なのだろうか。

そんなことを僕は時々考える。



藩金蓮さんは、淫猥なもの、禍々しいもの、忌まわしきもの、人にとって唾棄すべきものを書いても、その空気が穢れない。読後感が穢れない。それは一体なぜなのだろうか。

忘れてはいけないことがある(藩金蓮の「アダルトビデオ調教日記」)
街は壊れ再生して変わり続けても、海と山と空だけはずっと同じようにそこに佇んでいる。

 傲慢なことのような気もするけれども、たくさんの人の命が失われた広島、そして神戸の街へ行く度に、今確かに生きている自分の命というものについて考えずにはいられない。私のように死にたいと思い続けながら生き残った人間もいれば、生きることを切に願いながらの消えてしまった命もある。電車に乗って会社に通勤していると、「人身事故による電車の遅れ」の多さに最初は驚いた。けれども段々それが当たり前になってくる。

 死にたがる人間は、たくさんいる。かって私もそうだった。朝から晩まで死ね死ね死ねと自分で自分に唱え続けていた。何故死ねないのに、本当は死ぬ気などないのに死ね死ねと唱えるのか。弱い自分を守る為、弱い自分を正当化する為、社会と人と対峙することから逃げる為。死ねないくせに死にたいと唱え続けるのは卑怯者のやることだとわかってはいたけれどもそうすることでバランスをとっていた。

 だけど人は、そんなに簡単に死ねないのだ。


今回の神戸と広島を書いたエントリーを読んで僕は「水底」という言葉が心に浮かんだ。

震災後の神戸も、被災後の広島も、あるいは禍々しき怨嗟や悔悟に満ちていたのかもしれず、それは時間によって街が復興されても消えるものではない。ただ、そこに表面上再生された街があるだけである。

我々はそうした街を一度、観念の中で「水底」に沈めなければならないのではないだろうか。対象は水底に沈む過程で、洗われるべきものは洗い流され、それでも尚付着すべきものは付着し続けるだろう。水の底に沈んだ頃に、見えるべきものは見えてくる。見えるべきでないものは見えなくなる。

そして、それには時間がかかるのだ。

災害だけではなく、日常の記憶全般に対して、一般的に我らにはそうした作業が必要とされるのではないか。それには恋愛も含まれよう。我らの無意識に対して、そうした要請がなされているのではないかと思うし、それこそが、我らの生きづらい世界と対峙して生き続けるための、唯一の方法なのではないかとも思う。


人は時にそれを「忘却」などという言葉で呼ぶことがあったりするのだが、むしろ水の底に沈めたそれを、離れた所からじっと静かに眺めている姿が、この状態としては、似つかわしいようにも思う。そして、その「静かさ」を保つためには、心の強さが必要なのだ。

そんなことを考えた。