そうではなくて、常識と正義の概念が問われているのだ。

光市母子殺害事件について弁護人の活動を批判する見解が広く流布しています。しかし、上告審から弁護人に就任した弁護士たちが被告人に事情聴取をした結果、控訴審までの事実認定と異なる事実を聞いたら、それを押さえ込まずに、法廷で主張するのは当然の行いでしょう。これを「セカンド・レイプ」云々として批判している人たちは、この弁護人たちにどうせよと言いたいのか(弁護人は、被害者の感情を慮って、被告人が速やかに死刑となるように協力すべきであって、そのためには被告人の主張を弁護人の胸の内で押し殺すべき?)理解しがたかったりします。(刑事弁護人は被害者のために意図的に手抜きをすべきか la_causette

「手抜きをしろと言っている」と解釈するのはミスリードである。

「事実認定と異なる事実を聞いたら、それを押さえ込まずに、法廷で主張するのは当然の行い」ということだが、批判の焦点は「異なる事実」と弁護団によって評価されている事実が、「被告人の死刑回避にふさわしいだけの合理的な説得力を持っている」と、これらの大弁護団によって認定されたということの奇異さに集中しているのである。これらの弁護団の職業としての正義と、すべての事件判定に関して考慮すべき社会的常識に比して、この主張が評価できるかどうかである。

弁護活動の根本理念をここで説いても、それは違うだろう。刑事被告人を弁護する弁護人の根本姿勢が批判されているわけではなく、21人の大弁護団が提出した具体的な主張は、彼ら「高度な法の専門家」の良心をどのようにして擦り抜けたのか、それが問われているからだ。つまりそれら、「正義と常識に比して主張されるべき(と彼ら弁護団によって判断された)事実」は、弁護団が主張している以下の諸点にある。

●未発達さがもたらした偶発的な事件であり、被告に殺意は存在しなかった。傷害致死が妥当である。
●強姦目的じゃなく、優しくしてもらいたいという甘えの気持ちで抱きついただけ。
●騒がれた為、口を塞ごうとしたら誤って首を押さえてしまい窒息死した。
●被害児を泣き止ます為、首に紐をリボン代わりに蝶々結びしたら死んだ。
●死姦は死者を復活させる為の儀式である。生を注ぎ込み死者を復活させる為の魔術的な儀式だった。


これらの主張に対して、真に天地に向けて被告人の利害を合理的に弁護するために妥当なものであると思うのであれば、それはそれである。そうした弁護人がまだいることに(21人以外に)嘆息する。被告人自身にとっても、被害者にとっても、双方に対して悲劇に悲劇を重ねる弁護ではないか。

これら被告の主張が現実離れしていればいるほど、「12歳程度の」思考しか持たないとされる(現実の12歳がこれほど奇妙奇天烈であるとは思えないが)被告の責任能力回避へとつながると弁護団が信じているのであれば、私はその「戦略」の妥当性も疑う。結果はいずれ出よう。

弁護団には本当にこの方法しかなかったのか。
そして本当に21人という大弁護団を結成しなければ争えない事案であるのか。

外野から原則論で逃げている場合ではないし、マスのヒステリーのせいにしている場合でもない。

【追記】

小倉氏より反論をいただいた。

しかし、「殺意がなかった」云々と被告人から打ち明けられたら、(それが裁判所に認められれば死刑判決が下されることはない以上)弁護人はこれを立証すべく法廷活動を行うべきであって、それを「社会常識」なんてものに配慮して怠るようであれば、「手抜き」との謗りを免れないでしょう(もちろん、通常はそのような主張をすることにより量刑が重くなるリスクがあるため、そのようなリスクを告げた上で、それでもその主張を維持するのかの確認をとることはあるでしょう。しかし、本件ではもはや、上記主張をしなかったとしても死刑となることがすでに見えていますので、その主張を行わないとする理由は特にありません。)。

小倉弁護士の論に立てば、どのような「非常識」で「反社会的」な主張であっても、被告人が主張することを「社会に配慮して」そのまま主張しないなら、弁護士という稼業は「手抜き」となるということになる。私の考えは逆であって、被告人が主張することを、法的検討、社会通念を配慮してそれでもなお、有利な条件を勝ち取れるか如何かを十分に判断するのが、法のプロフェッショナルの役割であろう。被告人が言うことを、右から左に伝えるだけであればそれこそ「手抜き」であり、「上記主張をしなかったとしても死刑となることがすでに見えていますので、その主張を行わないとする理由は特にありません。」とあるのは、焼けっぱちを許容するとも思える暴言ではないか。「その主張を行わない理由」は十分にある。それは「被害者の心情を理解すれば」、そしてさらに、死刑回避論を唱える弁護団の戦略的道具とされている本村さんの立場への配慮を含めて考えれば、容易に導き出される社会的通念である。司法家は、時に社会通念に抗しても真実を貫くことはあろうが、完全に独立しているわけではない。もしそう考えているとすれば、司法関係者の思い上がりである。
「魔術的儀式」で強姦を行ったと主張する者の論をそのまま伝えるのが真実に近づく道なのか。被告の弁護に資すると判断できるのか。しかも弁護団は政治的戦略を個々の裁判を利用してまで主張することを許されているわけではないはずである。それを無視したのか、配慮しなかったのか、配慮にすら値しないと思ったのか知らないが、被告人に有利な状況をこれによって作り出せる可能性が1%でもあると思ったというなら、それに呆れるのみである。

まあ、敢えて弁護団がこの戦略を行ったことの結果から生じる全ては、死刑の回避の可否含め、弁護団が自ら責任を持って引き受けるべきであろう。その筋さえ通れば、私はこれ以上言う立場にはない。