証する人を守る


散々やりあった後で、持ち上げるなと言われそうだが、finalvent氏のところの松永氏のコメントは、意義があったと思う。BigBangの唱えている言説への評価がどうであれ、Ereni氏のコメント欄への私の反応が昨日の議論を呼び、そこで不規則に(笑)挟まれた匿名の煽りに刺激されて松永さんが、これを書いたとすれば、ネットも捨てたものではないと思う。その期せずしての連携に。


コメントの全文を引用する。もしも不都合があれば指摘してください。


1.教義の結果が必然的にそうなる理路の可能性がなかったのか。

いわゆる「殺人を肯定する教義」の部分は実践不可能なものとされており、実践課題としてはたとえば「不殺生」の戒を厳密に守ることが必要であった。したがって、教義をもって必然とするのは難しいと思う。少なくとも信者であった人の目からは、事件と教義が結びつかないので、事件そのものを信じられなかったという面が大きい。したがって、事件については、教義ではなく、教団運営の観点から見るべきであると思う。
たとえばシャンバラ化計画についても、当初は社会と対立するような内容ではなく、学校や病院の計画などのレベルであったが、それを政治的に妨害されたために政界進出を試み、それが妨げられたがゆえに裏ワーク路線が生まれ……という経緯は一般的に説かれてもいると思いますが、それは教義じゃなくて運営方針、目的を実現するための手段の問題だろうと思っています。


2.AUMが操られていた可能性は無かったのか。

当時の印象としては、いかなる勢力からも独立していた感があり(だからこそ自給自足)、ロシアに食い込もうとしていたとしてもロシアに操られていたというふうに感じたことはない。ダライラマ政権、スリランカとも同様。北朝鮮との関係はまったく伺えなかったので、早川紀世秀・統一協会ラインとか北朝鮮ラインとかのあたりについてはまったくわからない。統一協会とは信徒レベルでは相容れないものがあった。ただし、宗教新聞(統一協会系の新聞だが宗教関係の記事を書いている)とは友好的であった。私の知る限りの「他勢力の影響」はここが限界。それ以外については、創価学会幸福の科学とは完全に敵対。後の報道からすると稲川会との間に覚醒剤取引があったようだが、これについては当然、一般信者は知らなかったことである。


3.直接的な市民社会への危害としてのAUMと各種の薬物(幻覚剤や毒物)の関係は解明されたのだろうか。

質問文の意味がよくわからない。稲川会に売ろうとした覚醒剤はあまりに純度が高くて催淫成分に欠け、商品にならなかったというのもどこかで読んだ気がする。薬物を使っていたからその薬の影響で危害を加えようとした、という意味?だとしたら違うと思う。ラリっていたというよりは、当時の教団運営の方向性による暴走ではないかと思うので。マインドコントロールという言い方があるが、これほど曖昧なものはなく、単に教団・グルへの帰依(あるいは忠誠)をマインドコントロールというのであれば、それは一般企業での愛社精神の強い人たちとそれほど変わらないと思う。

少し戻って、悪の顕在化というと、たとえば悪人正機説に基づいて「悪人こそ救われる、だから悪をなそう」という勘違い解釈がありえる、という話かもしれないが、それはAUMでは否定されていたし、真宗の正当な解釈でもそうはならないはず。つまり、自分には悪(あるいは罪)があるがゆえに逆に絶対的な神的存在あるいは阿弥陀如来その他に自己を完全に放棄してゆだねようという動機が生まれるということなので、これをもって「悪をなすことを肯定する」とは解釈できないし、実際にそういう解釈はなかった。要は自分のけがれを証知することによって懺悔の心が生じ、それが求道心を強めるということであって、そこで「じゃあ悪いことをすれば救われる」というのは単なる堕落ととらえられます。

オウムの教義は「いかに自分の悪いカルマの清算をし、いかに自分のよいカルマを増大させるか」と集約できると思います。そして、殺生は悪いカルマを積むことになります。五仏の法則で説かれたのは「殺生という身のカルマを積んだとしても、そこに邪悪心がなく、完全にその魂のカルマを見通した上での慈愛によってなされる殺生であれば、心の善業を積むことにはなるが身のカルマは大いに積むからその覚悟は必要だし、それ以前に、殺生をなすときに邪悪心がないなどというステージは人間レベルではほとんどありえない」ということであって、要するに「お前ら信徒・サマナでも無理。お前らがやったら単に悪業」という話であったのです。だから、教義をきちんと知らずに危険な教義と言うのはどうなの、という話。


松永さんはここで、明確に教義と殺人との因果関係を否定されている。今までにも類似のことは書かれていたのだろうが、ここでは非常に明確に、松永さんの見解が書かれていると思う。特に「教義ではなく運営方針」によって事件がなされたと彼が発言していることは意味深い。

それならば、「教義」と「運営方針」とを別個のものとみなすことができる。犯罪性のない「教義」は維持しつつも、教団の運営方針が変わったことを信じて、事件後10年間教団にとどまった彼の考え方の、ほんの一端に初めて触れることができたような気がした。それは、大胆な美也子さんの質問に答えた、本ブログのコメント欄の以下の箇所にも感じられる。

http://d.hatena.ne.jp/BigBang/20070212#c1171354961

#美也子
その上で、松永さんに質問が2点。
1.教団運営のために何人もの人を殺した教団上層部に対して、嫌悪感や恐怖感はなかったのですか?
2.事件を知った後も教団に留まり続けること(ご自分)に対して、嫌悪感や罪悪感はなかったのですか?
(BBさん、お先にすみません)』


# matsunaga 『1. まず、当初はそれは「やっていない」と認識していたので、嫌悪感や恐怖感はなかった。後に、事件は実際にあったと知っても、そのほとんどの実行犯の人たちを知っていたわけなので、「何でそんなことになったんやろう」ということは思っても、嫌悪や恐怖は感じなかった。たとえば、自分の親しい家族が人を殺したとして、何でそんなことしたんと悲しんでも、嫌悪や恐怖になるかといえばそんなことはないと思う。そんな感じ。


2.犯罪を犯すことを目的として教団にいるわけではないし、教団も「事件の再発防止」には必死であって、むしろ違法行為を厳に戒める流れであったから、そこに嫌悪感も罪悪感もない。ただ、教団の置かれた状況の中で、むしろ、教団に残って社会的に責められ続ける窮屈な生き方をしていくのが、教団にいた者の責務だと覚悟していたこともある。犯罪を目的とした団体(たとえば過激派や暴力団)なら目的が反社会的だが、アーレフの場合は目的があくまでも宗教であって、事件の再発を目的としていなかったのだから、そこで罪悪感を感じるというのがよくわからない。』

(太字はBigBang)

私は、松永英明を追廻し、何度も何度も懺悔を迫っている筆頭であると思われているかもしれないが、それは本意ではない。100万回の形式的な謝罪よりも、こうした視点からの証言をしてくれることこそが、彼があらゆる期待に答えて、私たちと真に通じ合っていくための重要な契機になると思う。まだご本人は、そうした意味でご自分の価値に気づいていないように思われる。


松永さん、あなたから何度も謝っていただきたいなどと、少なくとも私は思っていない。その立場にもない。それよりも、ご自分の持っている比類なき立場に気がついていただきたい。



心無い(とあなたが思う)コメントに脊髄反射せず、証人としての比類なき立場に心をいたしていただきたい。



「証人を守る」ということがあるのかなあと思っている。お前が言うのは口幅ったいと言われるかもしれないが、そしていつも耳に優しい言葉のみでは、語り合えないだろうが、詰まるところ、この貴重な「証人」と「証言」を守っていかなければならないと思う。過剰な負担がかかっていると思われたら、休止することを心がけながら。