では公安調査庁はなぜ合法なのか

eshekさんのところに書いたコメント。こちらにも再掲します。
(細かいところを修正しました。)


http://d.hatena.ne.jp/eshek/20070213#c


>諸団体への調査は公安調査庁の任意の判断(オウムについては「無差別大量殺人行為を行った団体の規制に関する法律」による)によるものであって、「公共の福祉」に反するという根拠からではない。


とありますが、では「公安調査庁の任意の判断」を支えている根本原理は何なのでしょうか?最高法規である憲法の理念に反した判断が一機関の行動原理として定められるわけもなく、同庁の活動を合法化しているのは、詰まるところ憲法の理念でしょう。公安調査庁の行動原理にのみ、過剰と思われる比重を置くかに見える松永さんの解釈は、私には木を見て森を見ない解釈に感じられました。

また、「公共」は公共であり、それを個人間であるとか、国家であるとか解釈すること自体が、片手落ちに感じられます。私人としての個人、公人格としての企業や諸団体、そして自治体や国家。全てが公共であり、松永氏の解釈はこの中でも、特に個人間の利害調整に偏っているように感じられます。

また、危険な団体への言論を「事前に」制約すべしと私は唱えているわけではなく、「革命的マルクス主義者同盟」のような具体的な団体名が出ていましたから、この団体が団体の理念を変えることなく、団体名も隠すことなく、選挙に立候補する動きがあれば、当然に公安調査庁の事前調査にかかるであろうし、阻止の動きがあるであろうということを申しました。もしも現状有効な法律がないのであれば、私はこの団体に限っては、そうした立法を支持する可能性があります。するすると現行法で合法であれば、どんな理念を掲げた団体でも候補者を立てることが出来るというのは、机上の理論です。


良くも悪くも様々な手段でそうした動きを阻止するために、公安の調査活動が行われていると理解しています。法的な監視団体にのみ、こうした「監視」が行われているわけではありません。資金の動きや、構成員数、支部の数、場所、各所での写真撮影。それらを、苦渋の決断で、公共の利益という名の下に看過しているのが我々の社会です。

この現実を見ずに、「どんな目的を持った団体でも合法であれば政権をとることができる。それはそこまでは仕方がない」と考えるのは、非現実的であり、またあってはならないことだと考えています。
それでも尚、言論や表現の自由に比重を置く考え方も当然あるでしょう。それは理解します。ですが、現実はどうなのかということです。我々の社会はそうした風には出来ていません。できていない現状を、あるべき現状に変えようというならわかりますが、そのためにはまず、現実を見るべきです。現実に働きかけるべきです。空想の中で理想を描いても、空想でしかないではありませんか。そこに、ショーコーしょーこーの怪音楽をかけて、「合法に」政権をとろうとしたオウムの滑稽さをどうしても思い出してしまうのです。

#念のために言っておきますが、これは松永さんへの個人攻撃ではありません。オウムという集団への思念をどうやって私たちと松永さんとで共有していくかという問題だと理解しています。