手段の合法性が目的を正当化することはない---公共についてもう少し考える


夕べからあちこちのコメント欄で、ぐしゃぐしゃやっているわけですが

まあそういうわけでここから以降は仮定の話になるけれども、要求の内容が何であれ、それが正統な言論手法の範囲内で行なわれるのであれば、革マル中核派でも行なってかまわないと思います。むしろ、暴力ではなく言論で主張を行なうべきなのです。(まさかその主張の内容を根拠に、そのような主張そのものをどのような形であれ一切なしてはならない、と言うようなことはないですよね?)
それが言論の自由の保障された日本という国でしょう?(エレニさんのコメント欄での松永さんの発言

(太字はBigBang)

これを読んでちょっと驚いたのだけれど、当然前提として共有されていると思っている概念が共有されていないように思ったので、ちょっと書いておく。

「信教の自由」や「表現の自由」は、この社会を支える重要な市民の権利だけれど、無制限に保障されているわけではない。必ず一定の法的制約を課せられているわけであり、それは「公共の福祉に反しない限り」ということである。「公共の福祉」はこれらの自由に優先される。

憲 法 12 条
この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によって、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであって、常に公共の福祉の為にこれを利用する責任を負う。


アーレフが監視団体に指定されたのは、まさにこの「信教の自由」に対し、将来のテロ危険という「公共の福祉」が優先されたことによるものであり、現在各地で問題になっているアーレフ信者の住民票受け入れ問題も、対抗する住民が論拠にしているのは、この「公共の福祉」の前には、信者の「居住の自由」が制約されても、許容すべきであるという主張がベースになっていると思う。(ここは詳しく個々のケースを調べたわけではない)


一般に「信教の自由」や「表現の自由」に反するとして訴えられた事件は、裁判所によって必ず「公共の利害に反していないか」というフィルターにかけられ、その結果によって、個人や団体の結社の自由や表現の自由は「平然と」制約される。



ここで問題になるのは、ここでもやはり「公共」であって、誰が「公共の福祉」を決めるのか、お前かよ、違うだろ?という、いつか通った議論の復活になる。司法の場においては、当然最終判断は裁判所に委ねるしかないわけであるが、信者の児童が大挙してある小学校に越してきたところで、布教活動さえしなければ、「公共の福祉」を何ら損ねるわけはないだろう、というのが信者サイドの当然とるべき主張であると思われる。ここは、一時置く。



では、革マル派中核派の政治的活動はどうなるのだろうか。その「要求する内容」が何であれ、合法的な政治活動をするなら、その政治活動は無制限に許されるのだろうか?


公安調査庁の「内外情勢の回顧と展望(平成19年1月)」においては、オウム真理教と並んで、共産党革マル派中核派革労協などをあげて、それぞれの現状分析と活動の実態について言及している。(ここに共産党が入っているのは現在では若干の違和感を感じる向きもあろうが、その問題は別として)
これらの団体は、公安調査庁によって「公共の福祉」に反する可能性を引き起こす潜在的な危険があるとして、マークされているということである。この法的バックボーンの下に、公安調査庁の行為は合法化されていると考えていいだろう。



したがってこれらの団体が団体の利益を果たすための活動は、
同庁によって監視され、公共の利益に反するとみなされれば、直ちに検挙や拘束が行われる。
同庁によって調査監視の対象となる。
各地で頻発する共産党関連の関係者が、住居内のポストにビラを入れたときに拘束され、「表現の自由」あるいは「政治的活動の自由」を侵すものとして問題にされながらも継続しているのは、明らかにこの公安の「共産党観」が影響している。と共通の考量がなされているものと思われる。


※松永氏のコメントにより一部訂正


この公安の姿勢を問題にし、批判する自由ももちろんあるし、誤解されないように願うが、私はこの公安の姿勢を支持しているわけではない。公安もまた厳しく我々によって監視されるべき組織であるからだ。


ところが、ここで「公共の福祉」について論じず、あるいは「公共」の観点から論じようとする議論を排除して、果たして「信教の自由」や「政治的自由」を唱えることができる、ともしも万が一信じていたとすると、話は複雑なことになる。


松永さんの唱えている論に常に感じる危うさは、この点にある。どのような意図であれ、手法が合法であれば活動が許されるという風に、我々の社会の法体系は出来ていない。「公共の福祉」の御旗を最上位において、ほとんど無限のコントロール権を行使しているといっていい。これは松永さんも実感として承知されていると思う。


であれば、ここで「公共」の視点を考慮することなく、アーレフや中核、革マルの政治的自由に対して、無制限とも言える許容を与えるとすれば、著しくバランス感覚を欠いていると思わざるを得ない。


冒頭コメントの発言は

「手法が合法であれば、目的が何であれ正当化される。」

とさえ、とらえれるのであるが、そのような読み方は、私の知る限り、この社会の基本ルールではないはずである。そのような基本ルールすら批判するというのであれば、それはそれである。しかしそうではないはずだと信じるが。



最後にエレニさんのところでやりとりを一部再掲しておく。信者の自由を無制限に制約しようという論に組しているわけではないからお間違いなく。



# BigBang 『例えば破防法という法律を例に取ります。この法律の阻止を、身分を隠して、しかも教団のために成立させない方向に持っていこうとしている活動者がいたとすれば、これは「教団のため」と周囲にとって可視化できませんから、問題のある行為なわけです。言論の自由はありますが、無制限に自由が与えられているわけではありません。その意図が将来の一層のテロ行為の助長など反社会的な思想に染まっているなら、当然制約を受けますし社会的に批判されます。

それに対し、教団名を堂々と明かして政治活動すべきだし、しても問題ないと私が(私見です)考えているのは、教団の信者の方の住民票受け入れや未就学児童の問題です。これらに関して、教団が状況改善を、顕名で公党に申し入れる。これについては許容されるし、許容していかなければいけないと思います。

以前松永さんとはすれ違いましたが、元オウム信者であるということで、解雇される、あるいは不利な扱いをされる。これについても、脱会後の信者の人権問題ですから、仮に教団がロビー活動したとしても直ちに批判されるべきではないと思います。別の意図があれば別ですが。』

# BigBang 『>要求の内容が何であれ、それが正統な言論手法の範囲内で行なわれるのであれば、革マル中核派でも行なってかまわないと思います。むしろ、暴力ではなく言論で主張を行なうべきなのです。

これはとんでもない暴論だと思います。要求の内容が彼らの暴力的な革命を実現させ、選挙結果を自己に有利にする選挙制度の改革とか、自己に有利な環境を整備させるような政策をとるような誘導行為であったら、これは隠された意図自体が反社会的ですから言論の自由を適用するわけには行きません。

ご存知の通り、革マル派革マルである限り、中核派中核派であるかぎり、彼らの政治理念は現在の市民社会とは相容れないものです。「正当な」政治手法で、オウムの省庁制を導入されて、その頂上に麻原が立つ社会の実現を図るような行為に、誰が正当性を与えられますか?

ですから要求の内容次第だと思います。住民票の受け入れだとか就学の問題は、自分のほうのコメント欄に書いたので繰り返しません。』