眼差しの先

久しぶりにBigBang氏が立て続けにオウム関連の記事を書いている。


AnotherB - 公安調査庁・内外情勢の回顧と展望(平成19年1月)に見るオウム真理教

AnotherB - 「約束された場所で」(村上春樹)----神田美由紀の「純粋さに排除された現実」


明確に「誰か」へのメッセージであると推測されるにもかかわらず、最後の結論はない。彼の「こだわり」であり、「つぶやき」であると察せられる(「注目すべき」とされた内容は松永氏の証言と実はあまり差はないので何を言いたいのか不明だし、反論できないでいる人は困惑するだろうなと気の毒には思うけれど)。(eshekの日記


ちょっとeshekさんの理解が違うかなと思うのは、こうした私のオウム関連の記事の全てが、何も松永さんのみに向けて書かれているわけではないということだ。この問題は、私からあるいは私たちから松永さんの方向に向かってのみ存在しているのではない。むしろ、松永さんの側からもオウムに向けて、上祐に向けて、あるいは現アーレフに対して向けられているまなざしがあり、私からも人間松永英明を超えて、その向こうにあるものに向けられているベクトルがあるということだ。

私たちは、つまり私も松永さんも対峙しているのではなくて、ある壮大な欺瞞によって、異なる様式で騙されているだけかもしれないのである。僕が明確に彼へ向けて書くメッセージと、明確でないものを意識しているのはそうした考え方である。eshekさんも松永さんの存在をいったん抽象した次元でのオウム問題というようなものを少し意識してみてもいいのではないかと思う。


また「松永さんの証言とあまり差がない」という見方はいささか乱暴であり、彼の証言とこれら記事の間にある温度差、そして共通点は当然あるし、それが感じられる人には感じられるのではないかと思うが。このあたりは書き手としての私の力と、読み方の双方の問題であるとも思う。


「世間」については、お前がいう「世間」だけが「世間」じゃないぞと。そういうことかなと思う。それはその通りである。私の言う「世間」と違う「世間」は当然存在しているし、私は自分の言う「世間」を絶対的なものとしては見ない。違う「世間」を見ている人がいれば、その「世間」が対抗して提示されればいいだけだと思う。どちらに賛同するかは個人の問題であろう。

「世間」自体のの不存在を唱えるなら、それは、ほーそうかいという感じだが。


もちろん、それぞれがそれぞれなりに思うところはあるだろうけれど。eshekさんの書いていることについては、ほかにもあるけれど、ここではその点だけ。

それはともかく

ちょっとだけ(finalventの日記)

このあたりを読むと、あのブロガー懇談会というものが何であったのかについて、もう少し違う目線から、できるだけ早めに整理しておいたほうがいいのかなと思い始めている。つまり、これもここで書いたような文脈に沿った思念であり、松永英明批判とかそういうことではない、より政治的な視点で。