信者の政治行動

エレニさんのコメント欄での松永さんの発言
ところで、私は選挙に行くべきではないのですか。選挙で誰に投票すると言ってはいけないのですか。選挙演説に行ってはいけないのですか。政党の人が一般人を対象に行なった懇談会に参加してはいけないのですか。まったく理解できません。』

まず、ご本人のコメントを注意深く訂正しておく必要があるだろう。「選挙に行くべきではない」は「選挙にいくべきでなかったのか」、「懇談会に参加してはいけないのですか」は「懇談会に参加してはいけなかったのですか」に。

その上で、「懇談会に参加してはいけなかった」と僕は思い続けているのだが、当然として人間としての松永さんが、懇談会に出席することを批判し続けているわけではない。問題は何度も繰り返し続けているが、あのとき、あなたが烏山に居住する現役の信者であったことに尽きる。この事実から意味を読み取ろうとする「世間」に抗するのであれば、十分な説明や提示が事前に必要であり、当然手続きも必要である。


後からの説明で、既にあなたは、あの時教団から心が離れ、身を置いているだけの「不良信者」であったこと、懇談会への出席は松永個人としての行動でしかなかったことを説明され、私は既に概ねその説明に納得をしているけれど、それでも出席はすべきでなかったし、特定候補の選挙演説に立ち会おうなどということが万一あったなら、とんでもないことであったと思う。


理由は、個人としてのあなたの行動と、出家している教団構成員としての行動との峻別を容易につけられる(とすれば)のは、本人であるあなただけであり、他にとっては、それは十分な説明根拠を示されなければ、非常に困難であるからである。事実、ことのは問題が長期化している原因は、誰のせいだとか、彼のせいだとかいろいろ、皆言い分もあろうが、一つにはこの困難に今でも直面しているからに他ならない。


出家して、教団の道場に寝泊りする生活をする出家信者は、身も心も全て教団の教義に染まり、修行を重ねていると通常考えられていると思う。(世間は、という言葉は今は注意深く避けよう)少なくとも、私はそう考えていた。中にいる人から見れば、そういうものではない。そんな単純なものではない。例えば私は・・と松永さんは語り始めたが、他に同じような語りをしてくれている人は、そう多くはない。


テロの危険が去らないとして今だ観察処分中の教団に属する出家信者であっても、政治的自由はあるのだから、法的に問題はないと言い切るのは可能だが、事前に情報があれば、およそあらゆる人たちは、関わりを避けるだろう。そんなリスクをとる人はいない。理由は簡単で、リスクばかり膨大に大きく(「馬鹿な」世間であっても世間は世間である)得られるものはないからである。政治的自由以前の問題である。誰も出家中の信者が、組織の意を受けて動いていないという「証明」はできない。面倒な証明をするなら、関わりを避けたほうが無難であり、対抗陣営がそうした人物と関わっていたら、理解するよりも攻撃したほうが容易である。


このあたり、松永さんはどのように考えているのだろうか。


組織としての行動ではなかった、個人としての行動であったという事実は、丹念な説明や周囲の理解という段階があって初めて受け入れられるものであり、それらの前提が何もなかった過去の時点で、「許されなかったのか」と言われれば、僕は「許されなかった」としか答えようがない。だからこそ、出家していた自分の信仰、立場と、個人としての思想との間のあるであろう境界に関して、いくら語ってもらっても語りすぎということはないのであり、事実ここまで、(これでも)到達しているのであるから、フルなスペースが与えられているネットでの中断している「物語」がいつか、再開されることが、こうした問題に何回も突き当たり疲弊するよりはといいなと思う。

そこで語られるべきは、資料としてのオウム真理教ではなく、個人としての今のあなたと教団との「隔壁」の確からしさであろう。


これも松永さんが選択することだから、急くつもりはないし、時間がかかることは十分承知している。完成されたときに、一気にどこかで公開をされることを、あるいは考えておられるかもしれないし。