高い空、か。


高い空、か。

この話を、人が生きていく過程にあって、俗の者になって年を取っていくことへの恐怖と警鐘を鳴らすと読むのが原エントリーであろうし、そうした生き方の対極にあるのが「高い空」なのであろうが、別の論者は「高い空」に大江を重ねたり、「アメリカ女」を重ねたりもしている。


だが、おそらく「空」であり、しかも「高い」のであるから(笑)、1ついえることは、誰にとっても、そこに完全に手が届くことはないのだろう。見上げることがあるかどうか、そこに向かって手を伸ばしたことがあるかどうか、そして、肝心なことはその手を伸ばした方向が、本当に空の方向なのかどうかということなのだろう。


ことほどさように、人はしばしば間違えて「ドブ」に向かって手を伸ばすものであり、嫉妬に駆られて蛇となれば、手を伸ばすどころか、他人に向かってどす黒い舌先を伸ばしたりする。夜中にこっそりと鏡を覗いてみれば、そこにおぞましき蛇の像を見ることもあるだろう。


かつての自分にとっての「高い空」は、低い場所にあった。

なぜか思い出すのは、中央線の四谷を過ぎるあたり、細い坂道にしがみつくように立つマンション群であったり、あるいは郊外、新興開発地の山を削ったところに、額ほどの土地を奪い合うように競ってマッチ箱のような住宅を立て、皐月には鯉のぼりを飾る「普通の人々」の暮らしであった。


たとえ今、どれほど俗を軽んじようと、俗を侮ろうと、俗はそのときの自分にとって、低いまま、確かに手の届かないところにあったのである。低い空が高く見えていただけと言ったほうがいいだろうか。



では、今の自分にとっての「高い空」とは何か。


いろいろ考えてみたけれど。


今は、文字通り、空そのものしか思いつかないのである。