月夜の河童


ああ畜生。


判じ物のような訳のわからぬ文字の書かれた草紙を抱え、逃げ去る男を追いかけて走ってきたのは覚えているが、気がつけば一体全体ここはどこなのだ。奴の姿はもうそこにはなく、赤に銀ラメのチャイナドレスをしどけなく引きずった女が、聞いたこともない言葉で話しかけてくる。香水が鼻にかかるほんの数センチ前で、俺は女を突き飛ばし、むせ返る歌舞伎町の街の中で、奴の姿を探している。


あの野郎。一体、どこへ行きやがった。


何度も来ているはずの通りが、なぜか今夜は茶褐色の霧のような煙が立ち込めている。深く息を吸い込もうとしたその瞬間、暗がりからすっと手が伸びてきて、俺を傍らの雑居ビルに引きずり込む。情けなく転倒して地面に這い蹲る。

「やられる!」

一瞬全身が総毛だつが、必死に顔を上げると誰もいない。目の前に5本の柱が立っている。何だ、これは人の指か。目を凝らせば中指に「斉天大聖」と書いてある。何だ、これは釈迦の指ではないか。してみれば、さっき俺が追いかけていたあいつはあの石に閉じ込められていたエテ公か。エテ公にここまで舐められたとは、俺も焼きが回ったものだ。それにしてもどこに行きやがった。俺が探していたまやかし野郎は。

「ここまでおいで」


と声がする。後ろを振り返れば、ここはどこだ。また景色が変わった。5本の柱はすでに消え、エレベーターの横でかび臭いにおいを放って情けない声を上げていた猫ももうどこかへ消え、酒席の喧騒が薄暗い光の中で、むっと耳から鼻から飛び込んでくる。


「ようこそ、シュテンの城へ」


見ればさっきのチャイナドレスを着ていた女だ。黄色く細いカクテルを指にはさみ、嫣然と微笑んでいる。「シュテン?シュテンとはなんだ。?」と聞いても女は何も答えない。

「この中からエランデクダサイ」

目の前に出てきたのは、あいつが撒いて逃げた判じ物ではないか。これがどうしてそこにある?絵草子には赤い鳥居が描いてある。鳥居の周りにある見世物小屋では、蛇を両手で掴んでにやりと笑う半裸の女たち。俺は背筋が寒くなり、

「これをどこで・・」

と女に聞いた刹那に三たび女はあやかしの姿に変わり、手にした黄色い液を俺の方に思い切り振り掛ける。

「何をしやがる!」

手で振り払えば、その液体は無数の小さな子供の手になって、赤く燃え上がり、宙に浮かんですとんと消えた。
そのとたんに俺は気が遠くなる。赤子の声がしているようだが、それもだんだん遠ざかる。


目が覚めた時には、潮の匂いの中。俺は闇夜を走るAMGの助手席に座っている。隣に座るのは、見たこともない大きな男だ。男の顔は暗がりで見えない。

「チューンには苦労しましてね、腕のいい男を選ぶまでがね、大変なんですよ」

男はステアリングに、赤い皮の手袋に包んだ両手を、静かに添えている。

「音がね、しませんでしょう」

確かに、男の車は本牧に向かって優に200kmを超える速度で疾走しているのにも関わらず、何の音もしない。何の振動もない。男と俺を乗せたまま、まるで水の中を走っているような静寂が立ち込めている。

「動かないでくださいね」

と男が鋭い目つきで俺を見てにやりと笑う。

何を偉そうにしてやがると言おうとした瞬間、男の車から緑色の河童がすっと立ち上がった。

「わっ」

俺は車の隅にすくみ上がる。
ぬっと立ち上がった河童はしかし、少々生臭い匂いがするが、これでこいつ、なかなかの美河童かもしれん。
切れ長の目でずらりと眺め回されて俺は体の奥のほうが熱くなる。


雌だろうか。濡れたように光る鱗が、射抜くような月の光を受けてこの世のものとは思えぬほどに美しい。
からかうような目がすっと闇の中に消えたかと思うと、次の瞬間、河童は俺を小脇に抱えて飛び上がった。

「ひっ」

「静かにしなさい」

顔を見れば河童の目から涙がこぼれている。いや、河童も泣くのか。
この上なくグロテクスクなはずの肌は、嵩張る鱗さえも物悲しさをそそる月の光で満ちている。

河童の涙が俺のシャツにすっと落ちた。

「ど、どこに行くんだ」

その質問には答えず、河童は東京の空を疾走する。ビルの光が、稲妻のように後ろへ、後ろへと消えていく。
河童の腕の中に抱かれながら、いつか俺はうとうとし始めていたか。
それから何時間が経ったのか、何分だったのかもわからない。
意識はあるが、既に自分の心臓は動いていないようにも思う。

あふれ返るような、馬鹿げた生をおくる者どもよ。
教えてやるよ。

今俺は、この世で最も美しい河童に抱かれて空を飛んでいる。
お前の知っている世界にこんな馬鹿げた夢想があったか。これほど際立った天空があったか。愉快で愉快でたまらぬ。訳もわからず、腹の底から笑いが込みあげてくる。

気が遠くなるほどのGが、全身にかかっているのを感じる。
あの男のAMGの何倍の速度だろう。男は本牧に着いただろうか。


既に顔はひしゃげて後ろに引っ張られ、息もできないようになりながらも、俺は河童の美しい横顔から目が離せないでいた。


そうだ。言わなければならない。
俺はお前に伝えなければならない。


「俺はお前の名前を知って・・・。」



言葉を待たずに、河童が静かに俺の口をふさいだ。