戦うということをまず決めること。彼らと戦うことは迫害ではない。
多くの人たちは、ただ漠然とした不安から、オウムのことをこれ以上知る必要はなく、とにかく排除すべきだと考えている――つまりオウムに対する認識の再構成を拒否しているのではないかと、私は思うのです。そして私は、その考え方はある種の危険性をはらんでいるのではないかと、やはり思うのです。
そう思ってしまう私は、危険な相対主義の持ち主なのでしょうか? そういうお利口さん的な高見に立ったような偉そうな考え方は捨て、「社会のために」という旗のもとに、オウムと戦い続けるべきなのでしょうか?
「戦い続けない選択」もアリだなんて考えたこともなかった。ちょっと驚いた。
「戦い続ける」のは最初から自明のことだと思っていた。
あるいは「戦う」ことへの理解の違いか。
佐々木さん、滝本先生は「戦っている」のだろうか?それとも彼らを「理解しようとしている」のだろうか?
江川紹子さんは「戦っている」のだろうか?それとも「再構成しようとしている」のだろうか?
チューカンの話でことをぼかすまえに最初にはっきりと態度を決めるべきこと。
それは「戦うこと」でしょう。
戦いとは迫害ではない。
戦いとは虐待でもない。
戦いとは暴力でもない。
心を理解することが、戦いのうちであるという当たり前の、単純な事実。
それなのになぜ、我らはあなたがたとこれほどまでに禅問答しなければならないのだろうか。
何をぶれておられるのだろうか。