「おしゃべり箱」と言われると悪くない気もするが

電車や路上で1人でブツブツ、あるいは大声でしゃべっている人に出会ったことのある人は多いはずである。気のふれている「アブナイ人」に思えるし、何よりもその声がウルサイので、そばに近寄りたくない人たちである。彼らの頭の中では、常に「声」が聞こえているばかりか、その「声」が口からあふれ出し、あるいは「対話」も起こっているのである。

口に出してしまうと「アブナイ人」なわけだが、口に出さずに、頭の中で延々とコトバが巡っていることがないだろうか。布団に入ったあとに、頭の中でいろんな声やストーリーが巡っていないだろうか。内言(inner speech)と呼ばれるコトバの数々である。(ヒロさん日記  ■「霊の声」や「おしゃべり箱」から解放されて、今を生きる


祖母の田舎に行った幼い頃、囲炉裏のそばで、夜、猫が何もない空間を見つめて、目で何かを追ったり、急に走っていったりするのが、子供心に怖くてしょうがなかった。「独語症」とかいうように聞いたことがあるが、電車の中などで1人延々と話している人を見ると、あの囲炉裏のそばの猫を思い出す。

そんなのは当たり前で、人間は考える存在であり、それは思考であり、知性である、と思っている人がいるかもしれない。が、問題は、頭に延々とめぐるコトバ(あるいは映像)を動かしているのは、誰なのか、ということだ。コトバで考えるとき、自分に主導権があるだろうか。それともコトバに主導権があって、自分を動かしてしまっていることはないか。

もし自分に100%の主体性と主導権があるとすれば、頭の中の「コトバ」は、いつでもやめたいときにストップできるはずである。もしやめられないとすれば、それはなぜなのか。「我思う、ゆえに我あり」というのも一理あるが、思考やコトバは、私がよりよく生きるための「道具」にすぎないのだ。

ある瞑想の指導者は、頭の中にめぐる声のことを「Chatter Box(おしゃべり箱)」と呼んでいたが、おしゃべり度がひどい場合は「壊れたレコード」であろう。ろくでもない嫉妬や復讐の映像を伴うことがあれば、私はこれを「脳内三流映画」と呼ぶ。(同上)

そして、その田舎の家では、布団に入ってからしばらくは、部屋の隅でぶつぶつ、話す人の声が聞こえて、なかなか眠れなかった。恐ろしく怖いという感覚とはちょっと違うのだが、近所の人が何か用事があってやってきたのかと思うような、「気さくな」声だが、目を開けると誰もいない。しんと部屋が静まり返っている。



あのような瞬間、僕は猫になっていたのか。おそらく今では、その場所に行ってもそんな声は聞こえないだろう・・・というか取り壊してしまって家自体が消滅したのだが。



それにしても「おしゃべり箱」と言われると、少し楽しげである。