バスの中

疲れて乗ったバスの中で、薄汚れた男の席の前に立った。男は座ったまま、しきりに床に痰を吐いている。いやな気持になって、男の前から少し後ろにずれた。しばらくして気がつくと、男が中腰になって、僕のほうに向かってしきりに何か言っている。
何か気分でも悪くしたのかと思ったら、「ここに座って!ここに座って!降りるから!」とぶつぶつ言っているのだ。

「はあ?」と思った。そもそも、男の前には、もう別の女の人が立っているのに。失礼じゃないか。座るなら彼女だ。
彼女も怪訝な顔をしている。僕も席を譲られる老人の年でもあるまい。それに男はどうみても僕より年長である。

やや薄気味悪くなり、「はあ?」という顔をすると、

「あんた、さっきからずーっと立っているから。もう俺降りるから」

と真剣な顔で言う。それでも、うれしいよりも、厭な気分になる。

床の痰のことをちょっと思い出した。

「いえ、結構です」

と言っても、男は「立ってるから。さっきから、ずーっと」と繰り返しながら、降りて行った。
男の前に立っていた女性と僕の間で、空席が取り残されたが、彼女は座ろうとしない。僕も座らない。

気まずい時間が流れた。

やがて別の席が空き、僕も彼女も別の場所に座った。
そのうち男の席も埋まった。

忘れることにした。