月夜の河童 第三夜
まだ命が繋がっていたのか。
俺は、自分の手足を不気味な生き物のように眺めた。あの劇場で河童のために心と体が微塵に砕かれ、それがなぜかまた何者かの重力に引き戻されたかのように、戻ってきたということなのか。俺はまだ生きている。不思議と喜びはない。ただ頭の奥には、まだ調子はずれのトランペットが鳴っているような頭痛が脈打っている。
この一角だ。確かに記憶の収束していく場所があった。俺はおぼろげな意識の中でその街の名を思い出そうとした。そうだ。「Camden Town」だ。あらゆるがらくたやファッションから、何か由緒ありげなものまで、おもちゃ箱を引っくり返したようなマーケットが開かれるロンドン郊外の小さな街だ。何年も前に訪れたとき、ここで安い黒の皮のブルゾンを買った。しかしなぜ今そんなことを思い出すのか。
それよりも河童だ。あの化け物め。今度会ったらただじゃすまさない。
怒りを思い出せば、それと同じだけ恐怖も蘇る。俺は身震いする。
と、ふいに背後から乱暴に肩を叩かれた。振り返ると、無精髭の男が顔をぐしゃぐしゃにして立っていた。
「KOUDAさん?」
と驚く俺に「にやり」と笑いかけたかと思うと、彼は「Camden Town」の奥へ奥へ。狭い路地をどんどん入っていく。俺は慌てて後を追う。
「ちょっと待ってくれ。KOUDAさん。あんた・・」
KOUDAは日本で腕利きの地方紙記者だった。官庁の癒着を暴いたスクープ記事で勇名を馳せた。報道賞の候補にすらなったが突然雲行きが変わった。記事の舞台となった官庁の役人が名誉毀損でKOUDAと、その新聞社を訴えたのだ。対抗する証人を抑えていなかった新聞社はすぐに役人の言うとおり謝罪広告を掲載し、昨日まで英雄だったKOUDAは地に落とされた。彼は酷く中傷され、ロンドン郊外の片田舎に飛ばされたのだ。その後の彼の消息はほとんど日本では知られていない。
「KOUDAさん。河童の話だ。聞いているだろう。河童のせいで・・」
言葉をつなごうとする俺を、振り返ったKOUDAは黙ってぎょろりと睨むと、さらに奥へと入っていく。半裸に赤の薄物だけを身にまとった両性具有のピエロや、背中一面に般若の刺青を入れた古着屋の店員、そして得体の知れないキャッチコピーを入れた海賊版のDVDなどが所狭しと並んでいる中を、kOUDAはまるで両生類か何かのように、すいすいと泳ぐように渡っていく。
「KOUDAさん、答えてくれ。あんたなんだろう。あんたは何を言われたんだ。河童に」
河童は俺を息が止まる寸前まで2度も追い込んだ。耳をつんざくような雷鳴に打たれ、薄らぐ意識の中で、俺は河童の両腕に包まれた夢を見た。夢の中では、人を射すくめる河童の切れ長の眼はそのままだったが、河童の肌はぬめっとした、緑色ではなく、美しい人間の女そのものだった。河童は人に化身し、俺を抱きすくめてあの世から響いてくるような声で、俺の耳に囁いたのだ。
「KOUDAが知っている」
深い山の中を抜けていく一陣の突風のように、その言葉は俺の身体を貫いた。
「KOUDA?KOUDAさんなら知っているのか?俺が探しているあの判じ物を」
河童は答えない。答える代わりにぺろりと長い赤色の舌を出したかと思うと、また大地を舞う砂塵のように掻き消えたのだ。俺は河童に放り出され、夜の闇の中でただ横たわっているだけだった。河童は俺に「KOUDA」の名前と、この街、「Camden Town」へ繋がる意識の尾の先だけを置いていった。
気がつくとKOUDAが俺を見下ろして立っている。俺はまた気を失っていたのか。起き上がろうとするとKOUDAは両の手で俺の肩をがっしりと掴む。
「判じ物を書いたのは俺だ。」
KOUDAの野太い声が脳髄に響く。気がつけばKOUDAの顔の向こうには無数の星が煌く空があり、CamdenTownの木々が夜の生暖かい風に吹かれて揺れている。
「だが、お前には関係のないことだ。」
KOUDAが続ける。だが俺はもうKOUDAの言葉を聞いていない。Camden Townの空に掛かる一片の針のような月の一隅に、緑色の影がよぎるのを見たからだ。
「だから忘れろ」
背筋に冷たい汗が流れた。
声は河童にそっくりだった。