オーマイニュース・鳥越氏の外れた現状認識


が、諸所で問題にされているわけであるが、直近の記事でも



(引用開始)
さて、じゃ何を書けばいいのか?ということになると思います。何でもいいから書いて下さい、というのが実は一番厄介なんですよね。
私も時々そういう依頼をされることがありますから分かります。「何でもいい」というのが曲者なんです。
「例えばこういうことを書いてみたらどうですか?」。腕のいい編集者はこういう風にさりげなく囁くものですね。すると、ふむふむ、そういうことなら…とちょっと心を動かされるんです。
そこで、私も皆さんに市民記者として取り敢えず書いて頂くにあたってヒントになるキーワードを考えました。あ、もちろん、私のこんな考えなんか必要なく、書きたいことをいっぱい抱えてウズウズしておられる方には関係ありませんがね。どうでしょうか、毎日の生活の中でこういうキーワードだったら「ああそういえばあれ書いてやろうか!」ということはないでしょうかねえ。
つまり、この6文字です。
「喜」「怒」「哀」「楽」「驚」「恐」
きどあいらくきょうきょう。

創刊まで25日〜鳥越から

(引用終了)



って本当にあなたの心配なんて関係ないよ。

諸々問題があるのだが、この「何を書いたらいいのか」「こんな記事でもいいんです」のしつこいインフォメーションが、また無駄である。そもそも今は何時代か。ブログの時代である。市民記者に登録してから、さあ、何を書いたらいいのかわからんという人がゼロではないだろうが、多くの人がブログを持ち、既に自分の発信を始めている。書きたい人は山ほどいて、書きたいテーマは山ほどあると見るべきであり、そこに「オーマイニュース」「も」発信の選択肢として加わるということなんであって、ここを勘違いしてはいけない。韓国で2000年にオーマイニュースがスタートしたときと、今とは状況が全く違う。
この点でも時代が変わっていることへの認識を深めなければならないと思う。



「こんな記事でもいいんです。例えば・・・」シリーズで展開されている記事サンプルは、正直なところ、どれも要らんと言っても過言ではなく、このサンプルのレベルというかフィールドの見せ方の稚拙さがまた批判される原因にもなっていることにも気がつくべきだと思う。準備ブログで見る限り、現在のオーマイニュースの編集部がどのくらいの目線の高さで「市民社会」なるものを見ているか、あるいはどのくらいの期待感で「市民メディア」の価値を見ているかの心意気の限界も見えてしまっているのである。つまり、取り巻く側よりも主催者の心意気が低いというべきか。

これまでの推奨される「記事サンプル」を見れば、ああそれは新聞の投書欄をインターネットに切り替えたものなのだな。それはすばらしい。ワクワクします!ってな感じにしか思えないのである。

この内外の期待感の落差が、準備ブログのコメント欄があそこまで荒れた1つの心理的背景のようにも思える(もちろん韓国発メディアであることのジレンマなどもあるので、それだけではないが)



「何を書くべきかわからない人のために」なんてレベルのことは心配しないで、今後あふれるほど寄せられると思う記事が起こす、甚大な混乱や激論の仕切りに注力したほうがいい。そこからの試行錯誤の世界の大変さに思いを馳せれば「何を書いたらいいかわからない人」のことを心配する余裕はないと思うが。



自分が彼と著しく違う年代だとまでは言わないが(念のために僕も爺も団塊の世代ではないからね。誤解のないように若い人)、やはりこの時代のネットメディアのリーダーとしては無理があるのか。
このへん限界かなあ・・・。


何しろ、この記事のまとめも

>「喜」「怒」「哀」「楽」「驚」「恐」
>きどあいらくきょうきょう。

だもの。(これこそ無駄なフレーズ。団塊世代の病・キーワード/キャッチフレーズ病)


現実社会でそれなりに影響力と尊厳を持っている人が、ネットに出てきても、そのままそれを維持できるとは限らないんだよなあ。
これこそが「発信主体がフラット化された社会」の現実的な一面でもあるのだけれど。


【加筆 8/16】
オーマイニュースジャパンの「炎上」と「現状」(ガ島通信)

最近ずっと意見が合いませんでしたが(笑)
久々にガチかと。