十三夜の過ち
既に約束の時間を1時間回っていた。
若者が行きかう街の隅にあるバーで、ようやく現れた老人が差し出した皺だらけの掌には、鈍い青銅色の「玉」(ぎょく)がそっと載せられていた。
その青銅色の玉(ぎょく)は、かつては、より鮮やかであったことを思わせる色合いであったが、今はただ鈍く輝いていて、店の天井にある、アンティークのガス灯のような照明器具を、深い海の底に眠る財宝のように、その表面に静かに映し出しているだけだった。
俺は、その何か大仰な登場の仕方に気押されながらも、
「一体全体、何ですか?これは」
と、場に似合わない頓狂な声を発し、その間抜けな声に自分で驚く。
奥で1人グラスを磨いていたバーテンが、ちらりとこちらを見やるのが、視線の端に
入った。老人はその様子を横目で見て、唇の隅を微かに揺らしながら答える。
「センテーからね、賜りました」
「センテー・・・?」
「センテー」とは「あの文字」をあてる「あの言葉」か、いやそんなはずはないと俺が自問し
ているに構わず、老人はぐいと玉(ぎょく)を俺の目の前に突き出す。
うっと俺が身を引いたのは、老人の仕草の唐突さからではなく、その玉(ぎょく)から漂う、
得も言われぬ甘い香りのせいだった。いや、香りというのは、ちょっとそぐわない。むしろ
女の体臭のような「匂い」と表現したほうがいいかもしれない。
人の人生にどこからともなく影のように現れて、俺やお前をずたずたにしていく、あの厄介な匂いだ。思わず顔をしかめる。
俺の動揺が伝わったのか。老人はまたおかしそうに、唇の隅を微かに歪める。
醜い顔だ。と俺は心の中でつぶやくが目は青銅色の玉(ぎょく)に吸い寄せられて微塵も動かすことができない。
「物語をね」
老人が歪んだ唇のままで続ける。
「センテーの心の物語をね、読み取るのはやめた方がいいですよ」
穏やかだが心の臓に響く低い声。
近くを小田急線の線路が通っている。闇に漂う者達の嘆息が共鳴しているように空気が
びりりと震えた。最終電車だろうか。
「センテーの心の物語?」
テーブルの上、老人の前には黄色い液体が入ったグラスが置かれている。老人はおもむろに、その液体を飲み干すと、先を続ける。
「そうです。辿るのもね、おやめなさい」
何を言われているのかわからない。醜悪な唇がもう一度動くのを待つ。
「仮にね、センテーの物語を、これだとしますとね」
テーブルにグラスの中からその液体をぽとりと落とす。粗末なテーブルの上に、小さな染みができた。
世界から隔絶されているような孤独を感じさせる染みだ。
眺める俺に構わず奴は続けた。
「玉(ぎょく)の物語はここにあります。ほおれ」
言った瞬間、老人の掌にあった玉(ぎょく)から獣のように転がり出るように飛び出してきた
まばゆい光が、あたりを包んだ。眩しくて目を開けていられない。
俺は思わず両手で己が顔を覆ってうずくまる。
あの甘い香りは、いまや世界を根こそぎ唾棄してしまいたくなるほどの、醜悪な匂いと化していた。
遠くで若い女の悲鳴と夜を猛進する地下列車の金属音が聞こえる。そうだ。確かにここは地下深き場所だった。
女の悲鳴は増殖し増幅し、やがて数え切れないほどの人の悲鳴が、体の奥から内臓を全て食いちぎるような、ぞっとする波動と爆音を伴って、響き渡って来た。
苦悶と悲鳴が俺の世界を瞬く間に満ち尽くしていく。
「ツライ。ツライ。ツライ。」
「クルシイ。クルシイ。クルシイ。」
「コロシテヤル。コロシテヤル。コロシテヤル。」
ようやくあたりから光が消え、静寂の闇が戻ってきた頃には、老人の姿も玉(ぎょく)も、もうどこにもなかった。奴の座っていた椅子は、あの黄色い液体で微かに濡れていたが、奴も奴の言っていた意味不明の物語も、泡のように掻き消えてしまっていたのである。奥でグラスを磨いていたバーテンの姿も、消え失せていた。
外に出ると、闇の空に十三夜の月が煌煌と輝いていたが、俺は全身に冷たい汗をたっぷりとかいていたのである。