佐々木俊尚:「ことのは」問題を考える について少しだけ--誰でも断絶の中にいる。

少々と書いたのは、例によって少々では終わらない予感がしているので、ここではほんとに少々。
しつこい性格だから、も少し時間をかけて別に核(じゃなかった)書くと思うけど、気になったところを暖かいうちに。


 日本と中韓、オウムと日本社会の間に横たわっているのは、決定的な認識のずれと、絶望的なまでのコミュニケーションの断絶だ。それは実のところ、日中韓やオウム−日本社会だけでなく、先に挙げた『断』のコラムで書いたように、いまや社会の至るところに偏在しているように思える。


こういうことって、日本とアジアの間に特有に存在している問題ではない。僕は結構オランダの仕事をしたけれど、あそこはベルギーとの間に「絶望的なまでのコミュニケーションの断絶」を持っている。EU成立後もイギリスは未だにフランスに「絶望的なまでのコミュニケーションの断絶」を持っているし、米国はロシア人に「絶望的なまでのコミュニケーションの断絶」を持っている。もちろん日本人に対しても。韓国の人々は北朝鮮に対して「絶望的なまでのコミュニケーションの断絶」を埋めようと、何十年もかかって苦闘しているわけである。で、今私が松永さんやオウム真理教に「絶望的なまでのコミュニケーションの断絶」を持っていたとして、それが何か?



つまり世界にはそんなものは満ち溢れているし、我々はその中で葛藤して生きている。互いの間に少しでも手を伸ばせないかと苦闘して生きている。何も日本人がことさらにそのようなものを背負っているわけではないのである。特別もなんでもないものを引用して、何かそれで世界がわかったかのように誘導する手が通用するのは、そうしたことを「知らなかった」人たち、あるいは一度もそうしたことに悩んだり、考えようとしたことがない人たちに対してだけである。


つまり、こうしたレトリックで何かを言ったことには全くならないということだ。その上、中韓と日本の関係に対しても何も寄与することがない。つまりこういう言い方が機能するのは、ほんとに普段「何も考えたことがない無垢の大衆」というのを対象としてイメージしないと、例示そのものが意味がない。


で、残念ながらメディアは主としてこうした「幻想としての無垢で無知な大衆」を相手にした文章を書くことを訓練される場である。ソリューションのリスクは背負わず、現象を整理して「嘆く」(あるいは嘆いた外観を装う)これは湯川さんにも、R30氏にも、ガ島氏にも共通に感じる私にとっての「キモイ」点。



  • 日本人の「加害の視点」と「被害の視点」についての私の考え方は、前に書いたストック「非人道的とはどういうことか」にある程度書いたので、それを読んでくれればいいと思う。時間がかかると思うけれど。
  • あ、キモイと書いたのは何も、佐々木さんのところのぶくま↓を根に持っているわけではない。念のために。

# 2006年05月23日 Chaborin Chaborin ネット はっきり言って、松永氏とBigBang氏のどちらがキモいかというと、圧倒的なまでにBigBang氏なわけ。でも、ここまで言及されてもキモさの根源が見えない。"絶対的正義"という表現はあまりに断定的すぎてしっくりこない。


また書く。


【加筆】

まいらずにがんばりましょうよ(わかるけど 笑)。

まあ、一読、まいったな、こりゃ(finalventの日記)