小春日和2


温和な性格ですので(どこがだと言う声もあり 笑)、揉め事はできるだけ話し合いで片付けたい、どんなことでも話せばわかるはずだと思って努力する、人並の忍耐力は備えていると思っているのですが。

以前から言っているところの「一定のライン」というのは、自分の中にかなり明確なイメージがあるんですね。このラインを超えた段階で話し合いを行っても、もうそれは厳密な意味での「話し合い」とは呼べないと思っています。片方が非合法的な手段で「圧力」をかけ、それに応じる形で話し合いを行う。


一般的には、それは世間では「駆け引き」とか「調整」とか、それは呼ばれるのでしょう。


毒をもって毒を制すように、根気強くそれを続けていく地平にも、何もないとはいえないかもしれない。あるいは、ね。10年、20年重ねてきた「その人」の立ち居振る舞い、考え方、行動原理、思惑、テクニック、そして「人間性」と呼ばれる、ある種の茫漠としたあり方。それをも変えていただけるような、粘り強い「調整」を重ねるそんな処し方もあるのでしょうね。そしてそれができる人もたぶんいるでしょう。


たぶん、僕くらいの年齢になれば、それが求められるのでしょうが、生憎そうしたことに長けていれば、ここでこんなブログを書いていない。


大量に書き込まれている不詳の人物のメッセージの単語や意味は、もはやこちらには何一つ伝わっていなくて、そのメッセージの山の向こうに身を潜めて隠れている人間の、心の形=思惑しか、伝わらなくなっています。



大変に残念ですが、そして自分としてはめったに言わないことなのですが、これ以後の直接の話し合いには応じません。



しかるべく自分なりに、動きます。


経過はまた。