月夜の河童   第二夜


→月夜の河童(前作)


「この愚者たちが!」


河童はそうつぶやき、細い目を光らせて舞台を睨み付けた。


彼女はもう長い間、暗い観客席の一番奥に座って、舞台に散らばった男たちの演じる馬鹿げた芝居を観ていた。この茶番劇のような舞台を河童が見始めてから、どのくらいの時間が経ったのか、当の河童にもわからない。


幕が幾たびも上がり、幾たびも降りた。上手から幾度も新しい男が登場し、下手へと消えた。今男たちが円陣を組んでいる真ん中付近には、古びた木の机をどっかと据えて、痩せた男が何やら原稿を書いている。痩せた男は、さっきまで周りに誰もいないかのように、一心に古びた鉛筆を走らせていたが、今では落ち着かない様子で、舞台の中央で無意味に体を動かしている。


「あの夜、あのまま天空から真っ逆さまに突き落としてやれば良かった」



河童が苦々しく舌打ちしたのは、あの夜河童がふとした気の迷いで命を救った男が、舞台の中央に立って、先ほどから若い男と言い争いをしているためである。


若い男が叫ぶ。

「お前は誰に呼ばれてここへ出てきた!」


年長の男が言い返す。

「お前こそ誰に呼ばれた!」


若い男は、

「このくそじじい。さっさと舞台から降りておっ死んでしまえ!」

と憎しみを体中に表わして、茶褐色に色がくすんだ古靴を、舞台の中央で忌々しそうに踏み鳴らす。

すると年長の男が

「この若造!お前にこの舞台を渡すのは1000年早いぞ。」

とこれも負けじと、黒い山羊の皮できた、奇怪な靴を踏み鳴らす。
2人の男は、もう気の遠くなるような長い間、同じようなやりとりを延々と続けているのである。


河童は大きく息を吸い込むと、ぬめっとした右の手のひらを劇場のライトに透かした。緑色の五指の間に、ぴんと張り詰めた水かきが光った。河童は、それを広げてはすぼめ、すぼめては広げる。河童の記憶がすっと指の間に薄い水晶のような膜を張った。


若い男が続ける。


「俺をここへ呼んだのは観客だ。俺は呼ばれて出てきたんだよ。お前とは違う。」


年長の男が、嘲笑を劇場一杯に響かせる。


「とんだお笑い種だ!どこに観客がいるんだ!あ?この詐欺師野郎!」


若い男が、ほれそこに・・・と河童の方を指差そうとして、ぎょっとしてその手を引っ込める。男の目には河童は見えないはずだが、振り絞って前に突き出した人差し指に、ぞっとするような冷気と気配を感じて、たじろいだのだ。余りのの様子に、年長の男も、誰もいないはずの観客席を見回すが、据えた匂いのする観客席は、それでもしんと暗く静まり返っており、何も見えることはない。





「俺が共にあの天空を駆けたあの化け物はどこにいったのだろう。」




年長の男はふいに、男の背中を包んでいた河童のなめらかで、どこかエロティックな肢体を思い出して、溜息をついた。あれはどのくらい前だったろう。あいつは散々おれを嬲って掻き消えた。一体俺はこんなところで何をしているのか。こんな若造と、こんな汚い劇場で声を張り上げてなじりあっている。一体俺はどうしてしまったのか。俺の探している「あいつ」はどこに行ったのだ。



そのとき。



舞台の真ん中で落ち着かない様子で原稿を握り締めていた男が、恐怖にかられた目で、観客席を指差した。男の指ががくがくと震えている。若い男も、年長の男も、その異様な仕草に突かれたように、客席を見る。


河童は、天に向かって伸び上がった手を今まさに振り下ろすところだった。右手をぴんと伸ばした河童の姿は、どこから差し込んだかわからぬ陽光を反射して、緑色のまばゆく妖しい輝きを放っていた。美しく伸びきったその肢体に、男たちは息を呑む。


男は思い出した。こいつだ。こいつが俺をこの場所まで連れてきたんだ。あの後、こいつは俺を抱きかかえて、そして・・。目の前まで迫った河童の切れ長の目を思い出すと、背筋に稲妻のような氷の切っ先を突き立てられたように感じる。



「お前、ここで一体何を・・・」



男が2,3歩前に踏み出したのと、河童の右腕が振り下ろされたのは同時だった。地を轟音が駆け抜け、次の瞬間、天空が瓦礫のように真っ逆さまに男たちの上に堕ちて来た。爆風のような衝撃に男たちの姿は刹那のうちにかき消え、劇場もこの世から消えた。



もちろん河童も、どこにもいなくなっていたのである。