混沌から生まれる宝石


高等知的遊民、コガイ氏のブログなんて見たって、どうせまたアマゾンで本を買わされて、資産形成に協力するだけではないか、馬鹿馬鹿しい。
2度と行くか!



と思いながらも、たまに行くとこんな記事があるので、巡回をやめられない。




(引用開始)
「正しい」より大事なこと」(404 Blog Not Found)

しかし、それより大事、というよりそれ以前に考えておかなければならない問題がある。

それは、どの命題を扱うのが正しいか、ということ。

もう少し詳しく言うと、どの命題に、どれくらいの手間ひまをかけ、そしてどんな優先順位で吟味するのが正しいか、ということ。全ての命題を正しいか間違っているか判断するほど我々は暇じゃないのだ。

(中略)

要素はわかっている。重要性と緊急性。明日手形が落ちるかどうかの瀬戸際で、明日恐竜を滅ぼした規模の隕石が落ちてくるかを考えるのは「正しく」ない。運転中に急ブレーキをかけなきゃ行けない時に、より高性能なブレーキの設計について考えるのは「正しく」ない。

今のところ、我々はこの点において「みんなの意見」は「みんな」信じていないように思われる。いざ正誤や善悪を決定する段階においてはみんなの意見を尊重しているけど、それ以前の「解決すべき問題の順序決定」に関しては、「声の大きさ」の方が優先されるようだ。あるときはマスメディア、ある時は政府、ある時は上司、はたまたある時は家長だったりするが、「どの問題を扱うか」という問題決定に関しては、まだ「みんなの意見」はうまく行く行かない以前に、ほとんど試されていないように思える。
(引用終了)



その通りだと思う。

我々の間では、問題に関する優先順位が問題として討議されることはない。であれば、その「討議の不在」は意識されているかと言えば、意識されていない。その地平において、「正しいのはなにか」など協議できるわけはないのだ。

さらに言うと、こうして書かれているコガイ氏のエントリーも、それに突っ込んでいる私の駄エントリーも、そのくびきから放たれてすらいないということである。問題を問題として正当な地平から論じ合うこと自体が成り立たない、恐ろしい世界に我々は生きていることを忘れようとして、毎日酒を飲んだり、金を稼いだり、ピーをピーしたりしているのかもしれない。


ではどうすればいいのかということではなく、この解決不能の相互齟齬の存在を、意識さえしていないことが、我らの一番の問題だと思う。我らはかほどの混沌の中で口角泡を飛ばして生きている。


しかし一方で、私はかつて「明日の手形が落ちるかどうかわからない」切迫した状態でこそ、「手形の電子債権化」を思いつき、そしてそれが遅すぎたひらめきであったことも、その数秒後に知ることになった経験がある。
その話はダメダメであったのが、おもちゃ箱をひっくり返したような、人のばらばらな価値感と優先意識の混沌の中で、時折本当に何かが生まれる「ことがある」。それも真に美しい「何か」が。



その美しき石火は宝石であると言ってもいいが、まさに我らの混沌を母として生まれたものであり、規律から生まれたものではない。律された空気から生まれたものでもない。



してみれば、我らの整然や我らの美しき整列など、元々世界は必要としていないかもしれないのである。