「オーマイニュースについて」・・とか書いたんだが。

数週間前に、ちょこっと書いたものを、アーカイブという意味合い程度で、ここに上げておく。
で、一応これは「オーマイニュース」への期待とかいう感じの文調なんだけれど、今のところ、ちょっと心配な感じである。


こんな感じだし。→「いや「ミサイル発射は米軍のためか?」って・・・その論理は厳しかろう。」

が、それはそれとして。


ここ数年、メディアに対する信頼の揺らぎは著しいものがあると思う。従来、公器たる媒体を駆使していることがいい意味での特権的なメディア従事者の信頼を支えてきたし、そのことでこそ報道は機能していた。ところがインターネットの登場で、あらゆる市民が社会の事象について発言し、プロのジャーナリストと、少なくともネット空間においては対等に、あるいは対等以上にポジションがとれるようになってきた。もはやメディアは特権的ではないし、そうした意味でもジャーナリズムへの基本的信頼にこたえることができなければ、たちどころに批判を受ける。

しかし、一方で「総発信者の時代」ならではの、こんな出来事もネットでは起きている。

少し前の話だが、イラク人質事件の人質の1人で、日本中を「騒がせた」今井紀明君のブログ「今井紀明の日常と考え事」がひどいことになった。人質事件当時に彼に寄せられた匿名の、そのほとんどが誹謗中傷に属す手紙を、彼がブログで最近になってから公開したことが発端である。たちまち名前のない数千人が(と見える)押し寄せて、またぞろあの時の話を蒸し返して彼をこっぴどくなじり倒した。
今井君が公開した中傷の手紙は、人質事件当時のものだが、それに刺激されて押し寄せている者たちの言っていたことは、ほとんどあの時と変わらない。いわく「自作自演」。いわく「目が気持ち悪い」。いわく「税金泥棒。金を返せ」。いわく「政府と小泉首相に謝れ」。さらには、手紙の持ち主にことわらずにネットに公開したことは著作権侵害ではないかとか、死ねとか出て行けとか、まあ云々云々。

今井君たちのの行動が軽率であったことには、ほとんどの人は賛成するだろう。混乱したとは言え、あの状況で早期に家族が自衛隊撤退要求をしたことも、まずかった。特定の党派と結びつけられ、よくもまあこれだけ人をなじれるものだというくらい、今井君たちはリンチ状態にあった。公開された手紙は十数通であり、あの当時を知るものには目新しい内容はないが、それにしても、こうした手紙やハガキが、おびただしい数来るのだろう。当事者になった者の恐怖はいかばかりであったかと思う。同時に、今井ブログを襲った出来事は、今日の「総発信者」によるメディア社会の、危険な側面をいかんなく語る出来事だったと思う。

新しく出発する「オーマイニュース」はこうした「総発信者の時代」に、新しいジャーナリズムとして何をすべきだろうか。何ができるだろうか。

もしも「オーマイニュース」が、「市民=素人」を発信者とし、紙や電波の情報をネットに置換した点ことのみを特徴とするのだったら、実は余り読者にとって意味がないのではないかと思う。というのも、ブログの時代といわれるように、無数の情報が発信者=市民自らの手によって既に立ち上がっており、検索技術を駆使すれば相当程度まで、一次情報に近いニュースソースや、無名・匿名の優れた言説に出会うことは可能であり、そういった意味においては、ネット上に報道機関など必要ないかのごとき意見さえ見られるほどの段階に差し掛かっている。

だが私は、そんな「総発信者の時代」の現代であるからこそ、そこに新しいメディアの形が必要とされているのだとも思う。一読者の立場からすれば、ネットを通じていくらでも豊富な情報にアクセスできる反面、玉石混交、優劣渾然とした、あるいはエキセントリックで一方的な情報の大海の中から、自らの価値観と信念にのみ頼って記事を選択するのは能力的にも時間的にも、至難の業である。

もちろん様々なツールは整備されてきた。はてなブックマークのような、ソーシャルブックマークはその一つであろう。信頼できるキャラクターは、信頼できる情報源を持つ。このブックマークを共有することで、ネット社会における情報収集の一つの「信頼の体系」が生まれる。

「信頼の体系」。それが今、ネット社会、総発信者社会に生きる読者にとって最も必要とされる要素ではないかと思うのである。発信者から制御なく放たれた混然とした情報は、先の今井ブログ事件に見られるように、時としてすさまじい暴風と化し残虐非道と化す。個々人がその中から、冷静に合理性のある情報を取捨選択して自分の中で体系化するには、現代社会に行きかう情報の量はあまりに大量で、その速度も速い。

私達のネット社会における報道には、それらをコントロールする「信頼の体系=信頼できる同伴者」が必要とされているのではないか。

オーマイニュース」に私が一読者として期待するのは、まずこの「信頼できる同伴者」の役割である。そうした意味において、編集部の責任は、旧来のメディア同等に、いやそれ以上に重いと言わざるを得ない。市民の中に、優れた書き手や取材者は多すぎるほど存在すると思うが、求められるのはこれら優れた発信者の情報を、「信頼できる体系」に編集=昇華させるプロフェッショナルの存在とそのノウハウの確立であろう。その成果は、おそらく先行する韓国の「オーマイニュース」始め、日本のJanJanなど多くの「参加型ジャーナリズム」には徐々に蓄積されつつあるのだと推察するが、今「オーマイニュース」が、日本社会を舞台に、独自の基盤で新報道機関として出発するとき、我々の社会の中で一定の信頼のポジションをとれるかどうかは、率直に言って、今ほんの基本が試されようとしている段階だと思う。「信頼できる同伴者」の語りはいかにあるべきか、記事の取捨選択や評価は如何にあるべきか、読者との相互交流や情報交流は如何にあるべきか。厳しい批判の海にさらされたとき如何にあるべきか。その全てがまだ初期の実験段階を必要としていると思うのであり、その困難な前途を思うと同時に、私達の社会にとって、非常に意義のある試みが開始されようとしているのだと期待もしている。