個を知るということ

我々は、名前を付けた個であれば虫ですら殺せぬのに、抽象化された集団の一員であれば平然と殺せる生き物だという自覚こそ、国民的、いや人類的な認識にもっていくべきではないのか。
まずは自分を直視しようではないか。我々は地球の裏の身も知らない他人より、自分のペットの方の身を案ずる生き物だという事を。誰でもフツになり、誰でもツチになりえるのだということを。
それではどんな時に抽象化をとどまるべきか?実はそれほど難しくはないと思う。攻撃したい集団がいたら、その中の個人の顔を思い浮かべればいいのだ。交友関係をなるべく広くしておくべき理由がそこにもある。そこに友人がいたら、それだけで拳を振り上げにくくなるではないか。

(404 Blog Not Found Fatal Abstraction)

コメント欄に書き始めたけれど、途中で気が変わって、こっちに書くことにした。少なくとも滝本弁護士は「地獄の具象」の中にいるし、それを経てきたと思う。滝本弁護士は個を知った上で、抽象化しているんです。他方の方は違う。

で、抽象化しても具象化しても僕はいいと思うんですよ。重要なのはどこまで「知っているか」「考えているか」ということ。これはもちろん、DANさんの言い方に習えば、「個を知っているかどうか」に繋がると思うけれど、単に「個を知っている」「友人を持っている」だけでは、馴れ合いにも繋がる。友閥に繋がる。これはまた違うと思う。

誰でも一度でも一緒に酒を飲めば争いたくない。だが、それでも譲ってはならないものもある。もちろんこれが武力になることは、厳重に慎まなければならないが。