やはり背中から撃つときは突然に予告なく。が正解か。

BB氏は、例えば匿ってくれた誰某であるという話にもなって、それだとあれですか、殿山泰司さんみたいなもんだろうか、と考えると白樺派に対して申し訳ない。
いずれにしても男の世界では、背中から撃つ男というのが一番毛嫌いされる。


つまらない世界だからこそ、少しは見栄を張る
見栄というのは、痩せ我慢のことだが、どんなことがあっても自分は背中から相手を撃つようなことはしないと決めることも、ひとつの倫理だろう。
これは半ば美意識のようなもので、理屈ではないところに注意していただきたい。
(黒崎夜話 背中から撃つ男)


殿山泰司さんみたいなもんだろうかというのは、黒崎さん、際どいジョークだ。一人悦に入っている姿が浮かぶが、NONO。


それはともかく、古今東西、背中から撃つ男の心理はどんなものだろう。根からあざとく卑怯で陰湿、それこそ黒崎さん流に言えば、「男の風上にも・」というケースもあろうが、多くは、そうではなく、男は恐怖感から銃を撃つのである。



そうした臆病者も信頼ならないが、お節介すぎる男もやはり信頼がならない。あなたのカルマを落としてあげるなどというのは究極のお節介であるが、思えば米国も白樺派である。(話が飛んだ)他国の「カルマ」を落とすために、世界中で厄落としをしようとし、これは善意であると言い張る。世界を救うためと言い張る。


自称の「善意」「正義」は時として最大の暴力になるときがある。もちろん自分も。
それであれば彼我の差はつかないことになる。戒め。戒め。




で、「背中から撃つ」話である。



ここで撃たなければやられると思ったとき、僕は背中から撃つかもしれない。この「やられる」という感覚は、極めて個人的で微妙なものだけれど、そしてこのサイトで書くことは、それでなくても非常に観念的に流れがちなのだけれど、撃つときには撃つと明確なサインを送ることが自分にとっての最後の欣持のようなものである。
その後であれば自分は背中からでも、下からでも相手を撃つ。宣戦布告の符丁のようなものか。



もっとも多くの場合、そうしたサインを送る男は、振り向きざまに返り討ちに遭うのである。

それにそれじゃあ背中から撃つことにならないか。今更気づく。
やはり背中から撃つときは突然に予告なく。が正解か。




そしてできれば、いや絶対に一発で仕留めなければならないのである。
二度目はない。