リリー・フランキーあるいは東京タワーの不在

情熱大陸」のリリー・フランキーを見た。 「東京タワー [オカンとボクと、時々、オトン]」を読んだのは何時ごろだったかな。世間のご他聞に漏れず泣きながら読んだけれど、おそらく涙の性質は一般的なところとは少し違っていたと思う。レゴで対応するパーツが微妙に噛み合わないような感覚に、パソコンの見すぎで凝った肩を動かしながら、小首を傾げながら読んでいた。
闇の中に立つ東京タワーが、地方から東京に降り立った人たちの孤独感の象徴のようにモチーフになっていたのだけれど、故郷にいるオカンと、時々いい味を出すオトンが、しっかりとその作者の孤独感を癒す絶対な者として、そこにいた。「東京タワー」にあるオカンとの別れや死は悲しいけれど、人間存在として決して悲しいことではないのだという、芯もあったと思う。
夜空にオレンジ色の光を放つ東京タワーは、そうした生まれながらの安心感にも通じる光であったので、暖かい光でもあったのだ。

そうしたレゴのパーツを持たない人間には、オレンジの光は期待できないし、心の中に東京タワーもない。闇夜で手に触れるものから順に触り、匂いを確かめ、味を確かめ、風を確かめながら進んでいくしかないのだ。

そうした人にはいくら夜空を眺めても東京タワーはない。
もっとも最初からないものをそれ以上壊すことは、誰にもできないと考えることもできるのだから、そううなだれる必要はない。



最初からないものは、誰にも壊せないという。
そういうことだ。