謝罪ということ


ここ数日起きたことで、ふっと急に気になって、あのとき松永さんと話したときの記録を久しぶりに読み返してみた。

FLASH報道から1年・松永英明さんとの対話(1)

というのは、皆様ご存知の通り、あのとき我々は相当混乱した込み入った状況の中で、誤解を深めているときに会った。松永さんも精神的に限界のところまでいっていたと思う。ところが、考えてみれば、我々はどちらも謝罪の言葉を相手に対して一言も述べていない。松永さんも僕に謝らなかった。僕も松永さんに謝らなかった。本当にそうだったかなと、記録を読み返してみたけれど、やはり最後までどちらも相手に対して謝罪をしていない。のみならず、そんなことは会話の最中に一度も思いつかなかったし、その後もそれについて考えてみたこともなかった。考えようによっては、実際はともかく、まず色々相手に「迷惑」をかけたことを、形式的にでもいいから、「いろいろすみませんでした」と頭を下げる場面があっても、それほど不思議ではない。

しかし、我々はそれをしなかった。なぜなんだろうとぼっと考えた。

彼とは幾度となく、メールのやりとりもしたけれど、そしてそのあたりになると少し記憶が定かではないけれど、たぶん明確にお詫びをしたことはない。お詫びをされたこともない。

ただ、互いの考えていることを、相手に伝えようと、現在の状況を説明しようと必死に喋っていた。あのとき松永さんが僕に対して手を抜いていたとも思わないし、また僕も同じである。彼も過去のいきさつも含めて、彼なりの信念をもってやってきたのだろうし、期せずして「追い詰める側」になってしまったかもしれない僕の側も同じだった。どちらも相手に対して謝罪はしていないが、侘びの言葉を言わないことで、信頼関係を形成するのに障害になったと思ったことは一度も無い。



同じことに直面しても、人はそれぞれその「出来事」に対して自分を投影して自分勝手な物語を紡ぐ。それは僕もそうだし、他の人もそうだろう。それぞれの勝手な物語の真剣なぶつけ合いでしか、出来事は確認できない。それによってしか、コミュニケーションはできない。

僕は彼に謝ってもらいたいと思ったことはないし、おそらく彼もそうだと思う。しかし、それは決してどちらも間違っていないという意味ではない。とりあえず同時に謝罪してしまえば、それでいいじゃないかという考え方もあろうが、期せずして我々は双方ともそういうタイプの人間ではなかった。もちろんそのことへの評価は自由であると思う。


少なくとも僕は、今この問題に関して誰からも謝罪の連呼を受ける謂われはないし、それを必要ともしていない。