「メディア・イノベーションの衝撃―爆発するパーソナル・コンテンツと溶解する新聞型ビジネス」に扱われた「ことのは問題」(1)-----引用部


関連箇所の記載から少し起こす。記載箇所を起こすだけで、私の疲労感はご理解いただけようが、ここのところは数度にわたって書き起こしていくつもり。(尚、これらの問題は、既にオウムよりの脱会を公言し、手記の執筆に没頭している当該の氏自身の責任に起因する問題とは、位相が異なると判断し、事実関係の記載を重複して記載を重ねることで、これ以上の氏に関する風説を不要にばら撒かないように、このエントリーシリーズでは、以後イニシャルとする。※過去記事に関しては検討中)

P.145 第4部  ディスカッション 

■書くことの責任をとれるか

(ブロガーはジャーナリズムだと思っていないから責任をとらない記載が多いと藤代氏が指摘した後で)

泉   

送り手のほうでも「自分はジャーナリストじゃないから、何を書いてもいいんだと」と思って意識的にやっている人たちが実際にいます。

佐々木 

”ことのは問題”でネット上で議論をしたときに、僕が、「ブロガーもジャーナリストも同じ土俵、同じ地平線で言論が見えているんだから、その責任も権利も同じだろう」みたいなことを言ったら、「いや、ジャーナリストとブロガーは違うんだ。ジャーナリストには社会的責任があるだろう」と多くの人たちが返してきた。要するに”自分はジャーナリストではないから安全な場所にいるのだ”ということです。
しかし、今何が起きているかというと、そのブロガーたちが炎上していたりする。要するに「ブロガーという名を隠れ蓑にして、言いたい放題してきて、おまえは、いったいどういうやつだ」と、またメタ連邦軍みたいなのが出現してきて、そいつらに叩かれたりしているわけですよ。
だからこういうスパイラルは永久に終わらないわけで、ブロガーでも、ジャーナリストでも、同じように責任はある。その責任を負わない人は、ブロガーだろうが、ジャーナリストであろうが関係なしに、最終的には自分の後始末をせざるをえないことになるのではないか、という感じがしますね。

ブロガーは、ブログを持っているから逃げ場がないかもしれないけれど、ブログのコメント欄やSBMの一言コメントで自己表現している人たちっていうのはどうなるんでしょうか。


藤井(藤井亮(Parsley氏))

結局は責任をとらなければならないようになるんでしょう。アクセス解析や追跡などの技術も発達していくでしょうし。

※メタ連邦軍(脚注より)

連邦軍とは、「起動戦士ガンダム」から転じて。「ことのは問題」に批判的なブロガーが”隊員を募集”したことに始まる。しかし、ブロガーの脱落、内部批判などで足並みの乱れが露呈した。さらに連邦軍を名乗ることを批判する”メタ連邦軍”とも呼べる存在が登場。絶対的な正義を振りかざし批判をしあう状況を佐々木俊尚氏は「フラットの呪縛」と呼んだ。

※ことのは問題(脚注より)

ライターでアルファブロガーでもある(ブログ「絵文禄ことのは」を執筆しているM氏(原文はペンネームそのまま)がオウム(アレフ)信者であったことを明らかにしたことで、ブログ上で議論が起きた。M氏が自民党民主党のブロガー懇談会に出席していたことに対して「過去を隠して出席した」と批判された。また、民主党のブロガー懇談会をアレンジした泉あい氏にも批判が飛び火した。(第7部229ページ)。高まる感情的な批判に対して、佐々木俊尚R30、泉あいの3人がロングインタビューを行った。インタビューは「GripBloghttp://gripblog.cocolog-nifty.com/blog/2006/04/__b8d1.html)で公開されている。「絵文禄ことのは」(原文ではURL記載)」