雨の音-----AZABU


「こんばんは」

それでも彼女は微笑んでいた。あるいは泣いていたのかもしれなかったが、その表情は伺えなかった。というよりも表情で読み取るなんてここでは不可能だ。そう思いついて俺は1人で苦笑いしたが、不似合いな行為だと思い、あわてて唇を噛む。しかしそれも彼女には伝わらない。クラブの人工的な照明に照らされたフロアの中で、彼女の佇んでいる場所だけが、ぽっかりと暗い洞窟のように沈んでいた。ひんやりとした空気が感じられた。


「どうしたの?」

俺には答えず彼女は踊りの輪の中に入っていく。俺も後を追う。黙って二人で踊りだす。

「ここは不思議なところね、雨も降らないのよ。」

雨は・・と言いかけて、それを彼女に説明しても意味がないと思い、俺は言葉を選びなおす。

「いや・・雨の降る街もあるらしいよ。」

「行ったことあるの?」

「友達に聞いただけだよ。」

「そう・・」

目を伏せたように見える彼女が、疲れ切っていることが俺にもわかった。

「私はこの世界がわからないの。「彼」はそんなことは気にするな、考えてもしょうがないと言うんだけれど、そうもいかないわ。」

俺はステップを踏む彼女の耳に光るシルバーのイヤリングを黙って見つめている。少し日焼けした彼女の耳にそれはよく似合っていた。「彼」にもらったのだろうか。軽い痛みが心に走る。

「触れることもできない恋愛なんてあるの?いえ、元々この世界に恋愛なんて成立するのかしら。」

「・・・君はその答はわかってるはずだよ」

彼女は頷く。

「ええ、わかっていたと思っていた。でもまたわからなくなってしまった。「彼」は別の世界で会おうと言ってくれるんだけれど、「別の世界」なんて怖い。夢が全部醒めてしまうような気がして」

「夢だと思ってるの?この世界が」

「・・・わからない。夢のようにも思える時があるし、そうではないように思うときもある。」

「俺は夢だとは思わないよ。ここにいる君と俺は現実だ。そして新しいアクセサリーを纏った君に俺は見とれて嫉妬している。これも現実だ。」

「ありがとう」

彼女が微かに「笑った」(ような気がした)

「結局怖いのよ、私は。もしもこれが夢だったら、「彼」のことも、今目の前にいるあなたのことも、夢が醒めれば忘れてしまう。最初からこれは全部なかったことなんじゃないかって。私の妄想で、私だけがそれに気がつかないでいるんじゃないかって思う。」

俺たちの間に楽しげなNewbieのカップルがやってきて、曲に体を預けようとして四苦八苦している。彼女はそれを目で追うと、くすりと笑う。

「懐かしいわ。私と「彼」も最初はああだった。それからずいぶん時間が経ったけれど、何も変わっていない。「彼」にはこれ以上近づけない。そして、あなたにも」

「別の世界で「彼」に会えるだろう。そう思いさえすれば」

「うん、「彼」もそう言うんだけれど、断った。怖くて。それから後は会おうって言わなくなったわ、「彼」」

「そうか・・」

「あなたは私に会いたいと思う?別の世界で」

「・・・・」

俺はしばらく黙り込む。遠くで風の音がする。カップルがたわいもない話を横で始めている。自分たちの「声」が漏れているのに気がつかないのだ。無用心なことだと思う。

「わからないな、俺には。君とはここで出会ったのだから、このままでいい気もする。別の世界には・・」

「別の生活が?」

「そうだね」

俺は知っている。彼女は「別の世界」という言葉を使っているけれど、何もわかってはいない。彼女にとってはこの世界が世界であり、「別の世界」はメタファでしかないのだ。だから彼女は身動きができない。「別の世界」について彼女は何も教えられていないのだから。

「やっぱり私はこのままなのよ。この世界から一歩も出られない。何かが始まったと思ってもそれが本当に始まったのかどうかもわからない。あなたのことも私の妄想だと思えば、一瞬で消してしまえる。そんなの恋愛だっていえる?」

「おいおい。消されたくは・・」

「ごめんなさい。例えば、の話よ。そんなことはしない。」

「・・・・」

「そんなことをしたら、また1人になってしまうもの」

俺は空を仰ぐ。不思議なことに、さっきまで晴れ渡っていた空の色が少し青みを増したような気がする。夜明けまでにはまだ時間があるはずだが。

「笑うことも泣くこともできない。どんなに悲しくても、どんなに懐かしくても。ずっと私はこのままよ、「彼」とも、あなたとも。そうでしょう?」

俺は黙り込んだ。

「そんなの意味があるのかしら」





遠くで微かに雷鳴が聞えた。
どこかで、誰かが雨を降らせようとしているらしい。



「雨が降りそうだよ」

振り返ると、彼女はもうそこにはいなかった。