Ifはない

ふとしたことで、昔の仲間との接触があり、よもやま話で1時間ほど話し込んでしまった。僕が言う「昔の仲間」とは、ほかの意味ではなく、まぎれもなくそれはイベント業界の人間であり、あのきつい時代をともにした仲間のことである。その頃僕が所属していた会社はその後、つまりバブルが終わった後でご他聞に洩れずジエンドとなったのだが、異常な時代を生き抜いた人間たちの結束は今でも堅く、その頃の会社に属した人間だけではなく、受発注の関係にあった者たちも、今でも連絡を取り合ったり、適宜に新しい会社を互いに作りあったり、また解散したりしている。


僕はその後、その業界に見切りをつけちゃったというか、まあその、精神的にいやになってしまったので、コンピュータの世界に移ってしまったけれど、これは例外中の例外で、10人に9人は今でも同じ業界に残っているので、僕よりも互いに接触する時間が長い。


勢い、たまに彼らと会うと、僕が仲間の消息をレクチャーしてもらうというようなことになるのだが、当時の社長が復活してまた小さな会社を新宿御苑の方で始めていると聞き、驚いたり。死んじゃった奴も結構いて、幸いなことに最近はその人数は増えていないけれど、離婚とかね、やはりあるから、へーなどと驚いたり。


彼らの話を聞くと、続けていれば広告の世界で、そこそこはやれていたかもしれないなどという思いと、ネットが浸透した今の業界で、広告を続けていたかったというちょっとした思いと、あの当時のきつさをもう忘れてしまっているからそんなことを考えるのだ、忘れているんだなあ、自分。という思いと。


Ifはないのであって、それが全てなのだ。宴が終わろうとしたとき、自分にはもうあの業界で続けていくどんな力も精神的には残っていなかったのだから、もうひとつの「今」はなかった。わかってはいるのだが、記憶と忘却は時として甘美なマホーをかけるのだよ、少年。気をつけろ。少女もだ。