「私、落ちるわ。」----Kanda


Kandaは狂おしいほどの桜の中にあった。


駅前に出来た新しいカフェの窓一面に広がる桜の大樹。次の週末、満開になると誰かがテレビで言っていた。桜を、kandaでこれほどゆっくりと観るのは今年が初めてだ。見れば、まだ新しいカフェの良く磨かれた大きな窓に蝶が1匹迷い込んできている。蝶はガラスの向こうに見える桜の木に向かおうと、羽をばたつかせているが、もちろん店から出ることはできない。

蝶が永遠に辿り着かない桜の樹は、強まってきた風にゆらりと揺さぶられるが、まだ散ることはない。


「そうだ。まだ散るのは早いぞ。」


そんな言葉は音となって意味を持つことは無かったが、頭の中の、どこかで小さく響いたのだ。そのとき。


「kandaなんて変な名前!」


隣の「妹」が唐突に言った。いや、正確に言えば去年「妹」になったばかりの女だ。


彼女はあの日kandaで、俺の足元に転がっていた。俺がKandaに降り立ったとき、足元に人の気配を感じて驚いた俺を見上げて、ニコリと笑ったのだ。笑顔はこの非現実な街にあっては悪くないというより、かなり魅力的だったと言っても良かっただろう。女は、今日からあなたの「妹」になると言った。それ以来、「妹」はkandaで俺の後を、着かず離れずついてくる。俺の側には、実際断る理由も無かったのだ。


「どこの国の言葉かしら。kandaって」


俺は驚いて「妹」の顔を見る。しかしそれも無理の無いことだと思い、窓の外一面に広がる桜の大樹を見上げる。俺もKandaのことは詳しくは知らない。このあたりに来るようになったときには、当然のようにKandaという街は既にここにあったし、この桜の大樹もあった。花は永遠に散らないかと思われるほどに咲き誇っていたが、この街にも季節はあるらしい。「妹」と会ってから3ケ月ほど経った時、桜の大樹の根本は、一面の花びらで覆われた。桜は散っていた。


「妹」と出会ってからしばらくして、桜の花が散り切ったころ、「妹」もKandaからいなくなった。「戦(いくさ)が激化したのが原因だと思う。それから俺もしばらくKandaに足を踏み入れなかったのだ。その間に俺はひどく大事にしていた命と別れたような気もするが、記憶がはっきりしない。


「戦」が終わり、久しぶりに訪れたKandaは、あの「戦」以前の日々のように、この大樹の元に何事もなかったかのように人々が集まり、そして時間が止まったように、あの日と全く変わらない様子の「妹」がそこにいた。



「子供の頃に猫を飼っていたのよ。」


「妹」が言う。


「ミューという名前」

どこか遠い記憶の中で、懐かしさを感じるような名前だと俺は思った。


「ミューは、父が拾ってきた。あの「戦」の始まる、ずっと前。雨の夜だった。小さくてね、父の腕の中でぶるぶる震えていたの。ゴミ捨て場に置き去りにされていたんだって。私とはどこに行くのも一緒だった。ミューって呼ぶとね、飛んでくるの。」


「"飛ぶように走って"来たんだろう?」


「違うの。飛んできたの。」


そこまで微笑みながら話していたのに、「妹」は窓一面に広がる桜を見つめてふいに黙りこんだ。

kandaは夕暮れの闇に染まり始めていた。くすんだオレンジ色の帳が、降り始め、その帳の中で、俺の記憶が小さな声をあげた。

心の中で、小さな女の子の微かな影がゆらりと揺れた。猫を抱えている。あれは?・・・あれは誰なんだろう。


「「兄」は・・・」


「妹」は俺のことをいつも「兄」と呼んだ。


「「兄」はkandaになぜ来るようになったの?」

「わからない。知ってるだろう。俺は何も覚えていないんだ。」

「嘘。今、女の子のことを思い出したでしょう?猫を抱いた・・」


思い出している?誰を?


「ミューは、足が速すぎたの。飛ぶように・・いえ、飛んでいたの。だからいつも私は追いつくのに夢中で他のものは何も眼に入らなかった。周りのことが見えなかったの。」


急に意味のわからない痛みが、心に走った。


「待ってくれ。ミューは・・・」


「「兄」。私たちはkandaに住んでいたのよ。あの頃。もちろん、あの頃のkandaは家も少なくて、お店もほとんど無かった。開墾の途中だったわ。その中で、お父さんとお母さんと、ミューと「兄」と私。5人で住んでいた。」


遠くで、夜烏が鳴いた。あたりはもうすっかり暗くなっていた。店の中には客もいなかった。


「私たちの住んでいる家は、線路のすぐ横だった。朝は始発電車の音で眼が覚めたわ。夜は最後の電車が通り過ぎるまで、私もミューも眠らなかった。まだ開墾中の街だったから、線路には柵も何もなかった。踏み切りもなかったわ。」


そこまで話して、「妹」は息を深く吸い込んだ。


「ある朝、ミューが走り出した。というより「飛んだ」。ミューは利口な猫だけれど、時々訳がわからなくなってしまうところがあったのよ。急にあの朝も「飛んだ」。でもいつもと違うことがあったの。私は夢中で後を追いかけた」

かたりと、何かが床に落ちた。


「そこに始発の電車が・・・」


「妹」が話し終えないうちに、電車の轟音がたった今のように傍らを通り過ぎていった。

俺はずっと忘れていたのか。あの朝のことを。なぜだ。俺はなぜ何も覚えていないんだ。

窓の外を見ると、信じられない光景があった。あれほど満開に咲き誇っていた桜が、夜のkandaに一面に花びらを落とし始めていたのだ。桜は急に散り始めていた。

「妹」は散り行く桜を黙って見つめていた。恐ろしいほどの真剣な表情で、散っていく「桜」を見つめている。どのくらい時間が経っただろうか。「妹」が口を開いた。


「ミューはね。。ミューは、あの樹の根元で眠っているの。」


ミュー? あの柔らかくて小さなミュー! そして「妹」の小さな掌。でも、あんなに「妹」は小さかったのに。ミューと「妹」は急に家から出て行ったとばかり思っていたのに。ミューがあそこに眠っている?


「待ってくれよ。あの朝・・・」


言いかけたが、「妹」にはもうこちらの声が聞こえていなかったようだった。

「「兄」。。。」


妹はにこりと微笑んだ。あの日。kandaで「初めて」会ったときのように。ぞっとするほど魅力的な笑顔だった。


「そろそろね。私、落ちるわ」


その言葉を最後に「妹」は掻き消えた。



キーボードから顔を上げると、夜風が開け放ったままの窓から吹き込んできていた。カーテンがゆらゆらと揺れている。部屋はすっかり冷え切っていた。俺は窓のそばまで行って、カーテンを開けた。



夜の庭。満開の桜の大樹が、そこにあった。


この樹はずっとここにあった。俺が忘れていただけだったんだ。この樹はずっとここにあった。そして「妹」も・・。


いつも机に立てかけられていたミューの写真。猫の胸には幼い顔の見えない少女の掌だけがいつも優しく添えられていた。



「まだだ。まだ散るのは早い」

俺は庭一面に広がる桜に向かってつぶやいた。