「私、落ちるわ。」----Meguro


俺はキーボードをあてもなくいじり回している。キーボードのEnterキーの横に、小さな染みがある。指の腹でこするが、落ちない。まあどうでもいいか。そうだ。どうでもいい。小さなノートパソコンの液晶が普段より少し青みがかっているのも気になっていた。どこか調子が悪いのだろうか。


女は、買って来たばかりのブランド物の包みを開けた後は、大して気乗りのしない様子でなにやらごそごそやっている。俺達の間に、いつもうずくまるように暮らしていた猫が昨年逝ってから、俺達には会話がなくなった。俺は、夜な夜なパソコンの前で、同じように気持ちの籠もらないネット徘徊を続けている。女はどこへともなく出かけていき、特に楽しい様子もなく、いつも大きな包みを持って帰ってくる。

ひところ流行った「ネットサーフィン」という言葉が俺は嫌いだった。夜中にあてもなくネットを徘徊する行為に、そんな楽天的な言葉は似合わない。猫のいなくなった俺達にとっては、女のブランド漁りも、俺のネット徘徊も、同じくらいに意味がない。揃って互いに溜息をつく息の深さが、そのまま俺達の前に広がっている夜の長さと深さを表わしている。ふと窓の外を眺めると桜が咲いている。


「似合わないものばかり買ってしまった」


小さな息を漏らしながら女がつぶやく。うん?と顔を上げると、一体どこで見つけてきたんだろう。女の髪型はいつの間にか、頭がおかしくなるような破調の鳥の巣のようになっていて、奇抜なデザインの紫の肩パッドが、これでもかというように突き出している。こいつの体はこんなに細かっただろうか、と窮屈そうな腰のあたりをぼんやりと眺めた。よく見れば首筋には桜の花びらがひとひらかかっている。


「これでもあちこち探したのよ。デザイナーも若すぎるとダメなのよ。売りたい一心で奇抜なものばかり作るの。着る女の都合を考えていないのね。本当にひどいドレスだわ。最悪ね。ミューがもしいたら、とっくに引き裂かれているわよ。」


ミューというのは、昨年逝った猫の名だ。そうだ、ミューは女が気に入らない靴だのドレスだのを買ってくると一瞬で見分けて、たちまち引き裂く癖があった。あれはもう才能といってもいい。病気で弱って、やがてそれもしなくなった。ミューの病気に長い間俺達は気がつかなかったのだ。あわてて獣医に連れて行ったが、そのときにはもう手遅れだった。その冬、初めて雪が降った夜だった。
それでもミューは、最後まで眼から光が失われることはなかった。最後にか細く「ミュー」と鳴いた。荒っぽいが、あれで結構気のいい猫だったのだ。猫がいなくなってから、俺達はそれに気づいた。


「ねえ、ミュー」

女が不意に言った。


俺はぎょっとなって女の背中を見た。女は少し前かがみになって、腕の中に大切そうに何かを抱えている。


「あなたの一番嫌いなドレスよね」


「ちょっと待て。何を抱えているんだ?こっちに見せてみろ」


「嫌よ」


女は背中を向けたまま、小さな生き物を撫でているように見える。


「そろそろここも飽きてきたわ。ミューがいたときは楽しかったのよ。あなたとミューと、私。私がMEGUROで新しいつまらない服を買ってくる。それをミューが引き裂く。で、あなたがミューを追い回す」


「待て。話は後だ。お前まさか・・」


「ミューはいい猫だったわ。私がMEGUROに行った朝は、必ずそこの窓に登って、外をずっと見ていた。わかるのよ。私がMEGUROで何をしているのか、MEGUROであなたの知らないことを・・」


「話をやめろ。その抱えているものを見せろ」


「MEGUROだけでよかったのよ。ミューと一緒なら、世界はMEGUROだけで沢山。私はほかに街があるのも知っていたけれど、そんな知らない場所を頭のおかしな連中と一緒に街を歩き回るのはうんざり。ミューがいいのよ。ミューのようにそこにずっと待っててくれるお利口な猫。ねえ、ミュー」


開け放たれた窓から、冷たい風が入ってきた。女の紫のスカートが風になびき、抱えた両手の間にミューの柔らかな金色の毛が確かに見えた。


「お前、まさかミューを・・」


言いかけて女を見ると、その背中はさっきよりも小さくなっている。


「寂しかったわけじゃないわ。MEGUROにはあの人もいた。あなたに不満があったわけじゃないの。ミューと、あなたと、私がいるこの家も好きだったのよ。あなたのことも嫌いだったわけじゃない。ただ、3人でいるこの状態が良かったの。セックスなんてなくてよかった。それはほら、あなたも知ってるでしょう。毎年桜の散る季節になれば、私はMEGUROで・・」


「おい、いい加減にしろ。ミューをどうしたんだ、お前」


俺は乱暴に女の肩を掴んだが、その手は空を切った。



「あなたは、ずっと知らないふりをしてたでしょう?ずっと見ないふりをしていた。私のことも、ミューのことも。」



気がつくと女はもう俺から離れたところに、すっと立っていた。


「あの夜、雪が積もり始めた頃からね、思ってたの。桜が咲くまで、咲くまでって、思ってた。ミューがいなくなったときね、私、MEGUROも、彼も洋服もどうでもよくなったのよ。この家もね。」


女はそう言いながら、手に抱えたミューをすっと掲げた。透明なミューの産毛がふわりと揺れる。ミューはそのまま開け放たれた窓から、まだ5分咲き程の桜の木のほうに向かって、歩いていこうとしている。そのとき、俺はミューの4本の足が、どれも床についていないことに気がついた。ふわふわとミューは空を歩いていた。



「そろそろね。私、落ちるわ」



その言葉を最後に女とミューの姿は掻き消えた。





どのくらいの時間が経ったかわからない。あたりはすっかり暗くなっていた。



気がつくと俺はキーボードに突っ伏して眠っていた。パソコンを置いた机の上には、桜の花びらが1枚落ちていた。それが女の首筋にかかっていたあの花びらと同じものだとわかったとき、俺はずっと1人だったことを思い出した。




ずいぶん前から。俺は1人だったのだ。



「ミュー」


小さな鳴き声が聞こえた。