「社会正義」と「言論の暴力」について


greenのコメント欄での松永さんの発言。

暴力っていうのはどこまで含むんだろう。私は去年3月の時点では、BB氏に暴力をふるわれたとおもっていますよ。
黙殺・無視しようとしても「世間」に対して悪影響を及ぼすようなことを延々と伝えられたら、無視もできないわけです。単なるストーカーだとかの対処とは違う。つまり、自分に対する働きかけだけじゃなく、他の人たちへの影響もあるわけだから、そこで無視しきれないのに、体調は最悪、連日40度の熱で苦しんでいることすら仮病扱いされる状況。そこまでして俺を殺したいかと思いましたね。そういう気はなかったのだろうけど。
そして、その粘着ぶり=暴力が、彼自身に対する「暴力」を招いたのだと思いますよ。私は暴力に暴力をぶつけることを肯定しないが、一連の流れの分析としてそのように考える。もちろん、私はBB氏が暴力にくるしめられるべきではないと思っており、単に「あのときは暴力をふるっていたな」と認識してもらえば、私としてはそれ以上問うつもりは何もない。そして、BB氏はそのように認識していると思っている。
(green 相対と社会正義と)


「私がそのように認識=BBは暴力を振るったと自覚している」と考えているとすれば、これは松永さんの大きな勘違いである。認識の差に改めて驚いている。


その粘着ぶり=暴力が、彼自身に対する「暴力」を招いたのだと思いますよ。私は暴力に暴力をぶつけることを肯定しないが、一連の流れの分析としてそのように考える。


つまり、私が松永さんが現役の教団信者でありながら民主党懇談会に出席したことの説明を求めたこと、脱会しているならその意志を明確な形で示して欲しいと呼びかけたことが、=暴力であり、それが後の「私への攻撃」を必然的に招いた、と?そしてその攻撃を「善しとはしない」が、その理由は「暴力」に「暴力」をぶつけることを善しとしないからである、と?そういう現状認識でおられると考えていいのだろうか。


体調は最悪、連日40度の熱で苦しんでいることすら仮病扱いされる状況。


私はあなたの病気を仮病扱いなどした記憶は無い。おそらく当時のネットや掲示板での論調と、私の発言とが混同されていると思うが、覚えているのは、その高熱の渦中であなたが(ああもう繰り返すこと自体が私にとっても精神的苦痛だが)あるいは、仕事が失われていくことを嘆き、あるいは私に呪詛を放ったこと。そして、それに対して早く脱会届を出せと乱暴な調子で私がエントリーをあげたこと。この互いの応酬が、両者の長い決裂の決定的な端緒であったということだ。


「ことのは」はいつの間にかBigBangが先頭に立って「追求している」ということになった。その過程で先に書いたように、私は言辞がしばしばエスカレートし、ずいぶんコアな話も書いた。また意を近くした人たちとの間の関係も、言及された。一方でGripBlogは事実上立ち行かなくなり、「ことのは」も更新されなくなった。互いの心に深い不信感も作った。(ことのは 夏の終わりに



かつて、ここで私が「自己批判」したのは、自分の手法である。時にエキセントリックな言動がエスカレートしたことは、確かに反省しているが、「ことのは問題」に関する基本的な考え方は、当時と何ら変わっていない。当時と変わったのは、松永さんが退院してきてpsycho78との同一性が完全に否定されたことくらいである。ネット空間での「公共」への説明は、必要ないというのが、あのときもそして今も、松永氏の立場だと思うが、私はそれには今も同意していない。



もしも3月のあの時点に遡って、同じ局面に立たされたら、私は100回でも1000回でも同じことを繰り返すだろう。敢えて配慮するとすれば「手法」のみである。もちろん、私の一連のエントリーの文章のトーンは異なったものになっていた可能性はあるし、早期に松永さんに会った可能性はあるかもしれない。だが、私の姿勢の基本は変わらないし、一連の自分の行為は「批判」であり「暴力」とは自己認識していない。どころか、あれを暴力と呼ばれるのは極めて不本意である。「暴力」に「暴力」を返すべきではないなどと言われると、一部の者の行為の吟味を全くせずに、また背景の事情も鑑みず、あたかも「味噌も糞も一緒に」された気がする。



様々な「事情」があるにしても、泉さんは民主党懇談会以後、Flashの記事が出た直後に速やかに松永さんの談話をとるべきであったと今でも思うし、その考えは今も、今後も変わらないと思う。(但し現在松永さんが主張されている「諸事情」は必ず双方の善意を持ってすれば適切な処理ができたはずであるという補足を加えておきたい)速やかな処理がされることによって、「傷」はもっと小さく出来たはずだと、今も思う。



この自分の行動や考え方は、言うまでもなく、私自身が責任を負うべき唯一の立場であって、「社会正義」を偽装する気はない。しかし、かといって純粋に「個人的な好悪」によってなされたわけでもない。自分の一連の行動は、一部の人も同様の立場に賛同する、あるいは賛同してもらいたいと願う「相対的正義の概念」に基づいていると判断している。つまり、どんな事情があっても、「説明はすべきであった」という立場は、「説明すべきではなかった」という立場よりも支持できる=「相対的に正義である」と自分は考えているということであるし、そう考える自分の志向性は肯定している。これは、人前に論を唱えようとする者の共通の立場であると考えているのだが。



最近話題になっている「社会正義」に関しての自分の立場は、松永さんとも少し議論したが、佐々木俊尚さんに向けて書いた次のエントリーで私の立場は尽くされていると思う。


■佐々木俊尚:「ことのは」問題を考える について少しだけ--誰でも断絶の中にいる。
■佐々木俊尚:「ことのは」問題を考える について少しだけ2--絶対的正義なんてない。
■佐々木俊尚:「ことのは」問題を考える について少しだけ3--ネットは「絶対的正義」ではなく「相対的正義」が血を流しているのである。


この文中の「絶対正義」を「社会正義」と読み替えても、文意は殆ど変わらない。
私は自分の立場は、ブロゴスフィアに無限にある相対的正義の一つでしかないと認識しており、フラットな言論世界を望む気もないし、普遍性を求める意志はない。予定調和の平和な世界も望まない。絶対的な「社会正義」など当然世界には存在しないと思っているから、それを「偽装する」者がいれば同じく批判するが、その「見果てぬ社会正義」を人は恥じることなく志向し続ける「べき」であろうと思っている。


「社会的な」視点を自分の発言に持たせようとする意識は、何ら虐げられるべきものではない。人が、個々に持つ「正義」の概念が、所詮「相対的」でしかないことは自覚しながらも、言論の社会化・普遍化を図ろうとすることは、当然過ぎるほど当然の所作であると思う。


社会的に影響の大きい問題、多くの人が被害を受けているような重大な問題について、たった1人の「好悪」の情でのみ語ろうとすれば、時として行き過ぎた個人主義に繋がる。自分さえ被害を受けていなければ黙れという言論に繋がる。その志向を私は否とする。複数の人の立場=相対的正義を語ろうとする試み、少しでもそこに近づこうとする試みこそが、必要であると考えている。


※念のために。もちろんこれも「私が」考えていることだ。


複数を「代弁」したつもりの言論に過ちがあると思えば、言論の内容によって批判を返せばいいのであり、その自由な交換が、ネットの言論だと思う。誰が考えてもトンデモな、あるいは卑怯な「社会正義」が主張されたとすれば、私はむしろその「偽装」の意志よりも、言論の内容で具体的に批判されるべきであると思う。このトンデモな意見を拡大解釈して、全体の「社会正義を志向する」発言全般を嫌悪するよりも、むしろ正当に志向しようとする発言の具体的内容に、自らの「正義」から反論すれば良いではないかと考える。


ある人物が信念に従って、「正しい」と思うことを唱えたとする。「社会正義」という言葉も使ったとする。この人物を嫌悪するのは感性の観点で自由であるが、(正しいことを言っていても「嫌な奴」はいる)むしろ知性に求められるのは、その「嫌な奴」の言っていることに賛同できるか、否か。真偽を冷静に判断できるかということなのであり、前半よりもこの後半の観点の方を、私は重視していきたいと思っている。
さもないと、「嫌な奴」の範疇は無制限に拡大され、「社会的」背景を意識した発言の殆どが「嫌な奴」という新たな大義によって封殺される恐れを感じる。議論はプロセスにとどまって、本質に届かない。


「嫌な奴」と判断する好悪の情も、所詮は一部の「相対的正義」でしかないし、それを声高に言うものが集まれば、あたかもそれが「社会正義」であるかのように機能する運命にある。例えば炎上である。


つまり、「社会正義」を唱える者も、それに異議を唱える者も、同時に過ちの可能性を内在しているのだから、純粋に個の視点からの発言というのは、長期的には存在し得ないと思っているし、「個の視点から発せられた言論」が「社会的視点から発せられた言論」に対して、常に正しいわけでもない。
問題は「社会的衆愚」であり「言論ヒステリー」である。そのレベルに相手の、あるいは自らの言論を貼り付けて論じ続けることは空しいではないか。



一方、「相対的正義」がぶつかり合う世界を私は基本的に肯定するが、言論の暴力は別次元であると考えている。私にとっての「言論の暴力」とは、人を「民族」「国家」「出自」「障害」(精神的なものも含む)などの属性によって、差別的・侮蔑的な言辞を投げかけること、議論と明らかに無関係な個人属性を取り上げて攻撃し、当該の人物の同僚や家族にすら脅威を与えることである。


自分のブログでは、そうしたコメントがあったと判断すれば、自分の判断で即時削除することにしている。もちろん迂闊にも気がつかない点があれば、対象者のクレームに従い、その後処理をする場合もあるが、クレームがなくても無条件に自分のブログ上でこうした発言は許さないようにしたいと思っている
難しいのは、「批判」と「言論の暴力」とを見極める個人の主体、そしてそれに伴う責任だと思うからだが、これについては個々のブログで判断が異なることを批判する気はない。


松永氏のブログの一部コメント欄に残っている自分の個人情報については、削除してもらいたいと判断すればお願いを差し上げるだろうが、今は考えもあり、こちらから強くお願いはしていない訳であるが。


最後に氏から「メールでの議論は尽くした」というような話があるが、お会いするための前提や環境の確立について議論しようという私のメールでの呼びかけに対して、氏は未だに返信を返されていない。あるいは、既にエントリーで返したということなのかもしれないが、「メールの段階が過ぎた」とは、私は認識していない。ポイントはここでも「社会正義」の議論になるのかなと薄っすらと思ってはいるが。