ジャーナリストとブロガーは、本当に対極にあるのか

あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。

さて、これが今年最初のエントリー。

年頭、「絵文録ことのは」の「2007年のことのは/対極にあるジャーナリストとブロガー」を読んで。


 これはジャーナリストは職業にもなるがブロガーは職業ではないといった表層的な問題ではない。また、上のコメントを「ブロガーに正義感や倫理観は必要ない」とまとめた上で、「ジャーナリストになるための「欠格事由」は存在するが、おそらく「ブロガー」は人間の屑でもなることができる」と述べた人がいるが、ここは決してそんな意味ではない。

 「ジャーナリスト」は、自分が絶対的に正義という立場からものを言う。自分は社会正義を実現するための社会の木鐸であり、悪を追及し、悪事を暴き、疑惑を暴くのがジャーナリストとしての立場である。だから、いかなる陣営にも買収されるようなことがあってはならない。
 しかし、「ブロガー」はそうではない。ジャーナリストではないライターにもそういう要素はあるが、自分が正義なのではなく、「世間はどうか知らないが自分はこう思う」を主張するだけなのである。それが「正しい」かどうかは別である。自分の立場からはこう発言するが、判断は読者にお任せします、それがブロガーである。


松永さんの「ジャーナリスト」の定義は、かなり主観的であると思う。「ジャーナリズム論」に相当するものは相当沢山出ており、その資料を整理してから発言するべきかもしれないが、それでは時間がかかってしまうので、ざくっと言ってしまえば、「ジャーナリスト」の必要十分条件は、「真実を書く(報道する)こと」であり、「正義」を主張するという性格は現実に付随的にはあるが、本質ではないだろうということである。


例えば「芸能ジャーナリズム」は、(芸能人や有名人のプライバシーを報道する。このことへの個人的評価はともかく)商業的に需要がある=読者が存在するから、紛れもなく現代においては「ジャーナリズム」として成立している分野であると思うが、彼らの行動原理は、「正義」ではない。むしろ「真実の追求」であると思う。
ゴシップと呼ばれるような、芸能人の私生活を暴く行為は、一部から眉をひそめられていることは承知しているが、それにも関わらず彼らが「ジャーナリストではない」と言い切ることはできない。非難されるとすればありもしない、芸能人同士の離婚報道をしてしまったときである。
また、日経新聞等に代表されるような経済ジャーナリズムにとって、何よりも重要なのは経済活動に関する事実の「正確な」報道であり、ここでも「正義」が必須条件ではない。むしるライブドア事件のような経済事件において「正義」を振りかざすことは、当のジャーナリズム内からも批判が出ていることは周知のことである。



真に非難されるジャーナリストがあるとすれば、虚偽・デマを報道する者であり、それはおそらく「ジャーナリスト」とは呼べない。しかし「正義の概念」は人によって異なるのであって、全てのジャーナリストが報道すべき「社会正義」や「一般的正義」は元々存在しないはずであり、これが標榜されるなら、むしろその報道を疑うべきであろう。
では朝日新聞の社説はどうなのかという人もあろうが、マスメディアの一部に「社会正義」を標榜する向きがあり、それが反発を受けていることは承知している。しかし、これは現代のマスメディアが以前より批判を受けている部分であり、むしろ「ネガティブなジャーナリズムイメージ」であり「ジャーナリストとは」という一時的な定義にはそぐわないと思う。いずれにしても、「ジャーナリスト」=「正義を追及する者」という定義はあまりに表層的であると思う。


松永さんの定義は、この「現在批判されているジャーナリズム」像に影響を受けて引っ張られているように思うのだがどうだろうか。


あらかじめ説明も不要だろうけれど、元々「journalist」とは、ジャーナル(journal - 雑誌)に記事を書く人を指した。これが転じて新聞や雑誌の記事を書く人を指すようになったのであり、現代においてはメディアの種類が多様化しているので、新聞・雑誌・テレビ・などに原稿を提供する人全般を指すようになっている。松永さんはご自分をジャーナリストではなく、ライターであると定義されているようだが、雑誌等に原稿を提供した時点では、広義の視点からはライターも「ジャーナリスト」であると定義することも可能である。多くのライターはそれを望まないであろうし、園芸やペットの記事を書いている人を社会通念的にはジャーナリストとは呼ばないが、ITジャーナリストを名乗る方はいる。このあたりは曖昧な用語定義になっていると思う。


その場合に「正義」をジャーナリストの用語定義にあげている人もいるかもしれないが、それは一般的な通念にまでは達していないのではないか。そしてだからこそ現代のマスメディアへの批判があるわけである。
この流れから言えば、現代の新しいメディアに記事を書く人=ブロガーもジャーナリストではないか?という流れで、市民ジャーナリズムや参加型ジャーナリズムの試みに繋がってくる。この場合「正義を語りたい人」を大量に募集しているわけではない。「事実を伝えてくれる人」あるいは「事実を論じてくれる人」を求めていると考えたほうが順当であろう。



つまり、ジャーナリストは自分が正しいという主張である。「市民」や「パブリック」を冠するジャーナリズム系ブログが多いが、これは民主主義的な「正義」(つまり、大衆の意見こそが正しく、政府はそれを聴け、という正義感)のあらわれに他ならないと思われる。
一方、ブロガーは自分の考え、あるいは体験したことをとにかく表現する。
「正義」という立場から発言することと、「自分の視点」という立場から表現すること、この二つには大きな違いがある。



ここで松永さんが描くジャーナリストは、むしろ現代的な批判に晒されている「正義を押し付けるジャーナリスト像」であり、本来のジャーナリストの定義とは異なるのではないかということである。



ジャーナリストは、真実を報道する。あえて言うなら、それが唯一絶対の条件であり、それを守れない者は「ジャーナリスト」と呼ばれるべきではないし、職業的倫理にも反しよう。時にはその職業的ポジションゆえに、個人の視点というよりは「企業の視点を代弁」する形で報道することはあると思う。先にあげた、社説の例はその一つであるが、およそ企業に属するジャーナリストであれば、個人の視点からのみ発言することはできないだろう。



一方、「ブロガー」は、職業として成立しているとは言いがたい存在である。従って、企業的視点から離れて、自由に「個人的視点」から発言することが出来る。しかし、職業ではないゆえに、事実を書かなくても、あるいは虚偽の発信を行っても、チェックされる仕組みがない。つまり「ブロガーは自分の考え、あるいは体験したことをとにかく表現する」というのは、松永さんの考えるある種理想のブロガー像であるが、そうではない「ブロガー」も多く存在する。
事実ではないことを書いたり、意図的に虚偽の情報を発信したりする「ブロガー」も存在するということである。「事実を報道しないジャーナリスト」は存在しない(ジャーナリストではない)と考えていいと思うが、こうした「うそつきブロガー」はブロガーではないとまでは言えないと思う。というか成立してしまっていると思う。

私が「人間の屑でもブロガーにはなれる」とまで書いたのは、そういう意味であるが、一方、「人間の屑はジャーナリストにはなれない」。なぜなら、そうした者を経済的に安定して存在させる社会的要請はないからである。しかしそういう人物であっても「ブロガー」としては存在できるわけだ。

もしもジャーナリストとブロガーを隔てるものがるとすれば、個人的正義を主張するかしないかということよりもむしろ、こうした「社会的機構」があるかどうかということのように思う。それは「プロフェッショナル」が成立している世界かどうかという言い方に近い。

民主党のブロガー懇談会に弁当が出るかもしれないという話について、ガ島藤代さんは

「弁当出すなんて、ブロガーをなめてんじゃねーふざけんな!」、ぐらいの気持ちじゃないとダメなのかもしれませんね。誰からも「買われない」のが本当のジャーナリストですが、「買われてんじゃん!」と周囲から見られれば、それは「買われている」のと同様。

 と書いている。つまり、ブロガーに対してジャーナリストの倫理観を当てはめたのだ。しかし、ブロガーすべてがジャーナリストとしてものを書いているわけではない。むしろ、ジャーナリスト型ブロガーはごく一部にすぎない。

ガ島さんのあのときの「批判」は、まさに記者クラブ等を有する、旧来メディア(特に新聞)の取材方法に関する自己批判をそのままブロガーに当てはめようとしたものであり、これはまた別の問題であると思っている。


「民主党 ブロガーと前原代表との懇談会」---弁当よりも意志。


現代のジャーナリズムが苦悩しているとすれば、「正義」というより、この「事実の報道」というところの困難が顕在化しているところだと思う。誰もが事実を伝えることができる一方で、自己への、あるいは他者への批判精神の全くない事実提示が、果たして事実といえるのか?という問題である。事実はそれを伝える者の姿勢によって全く異なる様相を見せる。食べた物や、インタビューの発言などは、「事実のみを淡々と」伝えることは出来るかもしれないが、「ライブドア事件の真実」のような複雑なテーマを、100人が100人、「事実」を共有することはおそらく難しい。主観的判断を交えずには事実が構成できないからである。それは「社会的正義の概念」の問題ではなく「事実とは何か」という困難な問題である。


また、例え「真実」であっても、果たして報道すべきかどうか?報道することが正しいのか?という難しい問題に直面することもあるだろう。しかし、これは「ブロガー」にあっても絶えず直面する可能性のある問題だろうから、ジャーナリストに特化すべき問題ではないように思う。


非職業人(例えばブロガー)でも、プロフェッショナルを上回る質と量の報道が結果的に可能になっているというところも、おそらく報道の問題を鋭角に「市民に対して」炙り出しているのが今日的状況であり、現代のジャーナリズムの基盤を脅かしているというのも既知と言っていいだろう。マスメディアを支配する特権的な人たちではなくても、「事実」を追求することは出来るし「批判」が可能である。Web2.0と呼ばれる概念の一部にも触れられる通りである。それだけにやはり、「ブロガー」と「ジャーナリスト」の距離はこれから先縮まっていくと思う。


オーマイニュース」をはじめ、市民ジャーナリズムや参加型ジャーナリズムの将来に対しては、私は決して楽観的な見方はしていないが、こうした無数の「ジャーナリスト」が市井にあるということを前提に、報道を見直そうという基本的な動きそのものは、ある程度評価しているというか期待もまだ完全には捨てていないのだが。


もしも「ジャーナリズム」のコアな部分が「事実を追求すること」にあると仮定すれば、Web2.0的双方向ジャーナリズムの存在意義もあることになる。多くの「集合知」(それはnewsingのように組織化されないブロガーの集合によってでもいい)によって、事実の検証がなされることが期待されそうに見えるからである。
一方「正義を語ること」に関しては喧々諤々の議論はあっても、「成果」を求めることは出来ないだろう。また、そういった双方向ジャーナリズムで従来の「社会の木鐸意識」の必要性そのものがないともいえる。問題はむしろ、そうした「集合知」が本当に「事実」を検証できるのかどうか、個々の個性が倫理観や事象への批判力を欠いていた場合、正義どころか、事実ですら検証できないのではないか、という点だろうか。


#まあ、「オーマイ」の問題はそのレベル以前ではあるが。