コメンテーターとブロガー----ブログを書かない言論のあり方について

つまり最近の言葉で言うと、「アルファコメンテーター」ということになるんだろうが、ここでは特定の個人には結び付けない。一般的考察とする。くれぐれも、それぞれの個性を思い浮かべないようにね。アルファコメンテーターと呼ばれながら、実質ブロガーになっている人もいるが、おそらくそのブロガーとしてのあり方は、私なんかとは違う。(私がじゃあ何なのかということも定かではないのだが。)


それはおいておいて。


ここで扱うのはブログを書かないでブロゴスフィアに生きるあり方についてである。


ブログを書かない言論は、主として他人のブログへのコメントで表現されることになる。どこか気が合うブログに集中的、恒常的にコメントを書き込んでいる人もいれば、特にどこということはなく、様々なブログに縦横に当意即妙のコメントを行うこととで、いつのまにか「コメンテーター」としてのポジションを確立している人もいるようだ。


そこまでやるなら、つまりそこまで他人のブログに熱心にコメントするならいっそ、自分のブログを持てばいいのにと思うのだが、そういう「生き方」はなぜか避け、コメント中心に活動する。ブログがない時代には、掲示板に書き込むだけという人もいたので(今もいるだろうが)、このこと自体をあまり奇異に思う必要はないのかもしれない。何しろ個人の自由なのだ。ブログを持つも持たないも。そうでしょ。


ではあるが
ではあるが


私から見て気になることがあるとすれば、こうしたコメント中心での活動で、言論の一貫性のようなものを保つのは難しいのではないかということだ。言論の一貫性などというものはいらん。という声もすぐ聞こえてきそうなのだが、平たく言えば、他人のブログにコメントすることで縦断的に活動していると、それぞれのブログ主のカラーを、自ら時に応じて多彩に身にまとうことになり、時々の発言がそれぞれのブログに合わせたものとなり、本人が一気通貫にその各所での言論を検証されたとき、厳しい要素が出てくるのではないかということ。

あそこではああ言っていたじゃないかと。かね。

もちろんブログを持っていても、その日の気分で言辞は揺れ動くし、右へも左へも漂うかもしれない。しかし少なくとも読者は、その「揺れ動く個性」を「定点観測」できるのであり、そこでの観測軸は時間軸のみである。空間ではない。たとえば気分が落ち込んでブログを休止した作者が、また戻ってくる「様」というかブログの「生き様」を見ることができる。これなどは「定点観測」によってこそ可能とされることだろう。


コメント専門の場合はどうだろうか。継続的責任を負うことがブロガーよりも少ないことにより、個別のシーンで効果的な臨機応変の言説を出せることでは、「重荷」を背負っているブロガーよりも柔軟な気がする。自分のブログに訪れる「ユニークな訪問者」やフレーミングへの対応の責任を負うこともない。炎上の危険も皆無である。


しかし、この縦横に活躍する言論者=コメンテーターは「時間軸」と「空間軸」双方の試練を受ける。その2方向で有効な言論をなすことはなかなか難しい。「自分のブログを持って発言しろ」としつこく言う、その心理を慮れば、この「時間軸」と「空間軸」を股にかけて揺れ動く言論を、観測者が手に余しているから。という見方もできる。

ここで「コメンテーター」を一般的に批判することは、この記事の趣旨ではない。つまり言いたいことは、縦横に活躍する「非ブロガー」の言論者は、ブロガーに比べてこの2軸による検証を常に受けていることを意識すべきであろうということである。

ブロガーも辛いことが沢山あるだろうが、コメンテーターにもおそらくある。それは踏まえたうえで、引き受けなければならないものもある。そう考えてくると匿名ではないコテハンのコメンテーターというのは、実に難しい言論ポジションだなあと思う。



このあたりの難解さは、掲示板での匿名発言者にも、あるいはあるのかもしれないが、そのあたりになるとよくわからない。このへんも整理ができたような気がしたらまた書くことにする。


【加筆】

この「コメンテーター」の自由さと制約を熟知した上で戦略的に活用する場合もあるだろうな。それはそれである。