「不自然なこと」とかいろいろ


くれぐれも一般論として。


自分の思考方法に関して最近如実に自覚していることがある。それは、「不自然なこと」に関してこだわりが強いということだ。流れの中で感情的な、あるいは論理的な部分で理解できることと、どうしても理解できないこととがある。そういう形で何か「不自然な」現象が出てきた場合、僕はそれにこだわり続けるようである。



で、こうした思考方法と逆に「(偽であると)証明できないなら不自然さも許容すべきだ」、あるいは「不自然であると感じる理由を説明できない」なら、「不自然である」と考えるその見解そのものを撤回すべきであると言う考え方もあるようである。こちらの立場からすると「では自然であると思うならそれをこちらに納得させてくれ」となり、まあ堂々巡りになることが多い。



事実の真偽に関して100%の「明確な証拠」を見つけることは、ネットの世界では困難であることが多い。本人認識の問題もそうだし、シンジケート的な人と人の繋がりもそうだ。誰と誰が結託しているとかいないとか、証明のしようがない。これを必要以上に拡大解釈すると、過剰かつ滑稽な謀略論になってしまうのはわかるが、その逆もまた証明は難しい。つまり真偽いずれもね。
ではパソコンを離れて歩いてみたとして、何かを掴んだとして、それを永久にネットにフィードバックしないでいいのか。あるいはどのように戻すのか。「見てきたからね、おいら。」で済むのか。



「いや、いいのだよん。mixiに戻すからねん。お前のいる場所には戻さないだけだよん。」


という思考も最近強いようだね。mixiだったら、「準備の整っている」者だけが対象になるから、ある意味楽だ。わからんではない。しかし今度はそのmixiというクローズな空間から永久に答が外に出てこなくなってしまうんだけれどね。



まあ、当事者がそれでいいと言うならそれでいいのかもしれないが、外からは出せ出せと言われ続ける。外にいる人のほうが数が多いからね。当たり前の話だけれど。



法理では、「疑わしきは罰せず」となり、ある意味明確であるが、ネットではよく「印象操作」という言葉が使われて、極端な話、質問しただけでも、その質問の意図が邪推されて「印象操作である」とされることがある。平たく考えて聞かれれば答えればいいだけの話であるが、中には答えるのが難しいというより、そもそも何を聞きたいのかわからないような質問もあるから一概には言えないが。



で、ちょっと枝葉に入るが質問という形式にふさわしいテーマであるかどうかということもあるな。ある種の批判なり糾弾なりを続けているに過ぎないのに、それを相手に「質問」という形のみで迫っても不毛であるとは思う。それはQ&Aではなく、「議論」なのだが、それがかみ合わないと「答がない」と称す。実は答がないのではなく、意見がかみ合わないのである。つまり反論は返ってきているのだが、それを受け止めず「答がない」とする。


話があちこちに飛んだけれど、元々うだうだだから、気にしないで(?)欲しいのだけれど、そういうわけで何が言いたいかというと、「不自然なこと」への引っ掛かりが私はちょっと強いんですとそれだけの話。


くれぐれも一般論として。