「まあいろいろある」の先へ

「まあいろいろあるんだよ。わかるでしょう?」

みたいな、互いの暗黙の通じ合いというか、問題を最後まで言わないで置いておくみたいな会話はやはり年を重ねるに従って増えてくるように思う。

敬愛するfinalvent氏とは全く別の世代であるが(嘘)、finalvent氏のエントリーが微妙な立ち位置から可能性だけほのめかして、敢えて先に踏み込まないことはよくあること。

「そこから先は、言わぬが吉かと」

みたいな感じね。(あくまでも感じ。)

で、僕などそれを読むと加減は絶妙であり、そうそう、そういう感じ。などと賛同するが、若き人たちからは

「何言ってんだよ。わかんねーよ!」
みたいなことがよくある。

で、ここから先は独自の説かもしれないが、思うに、年齢を重ねると、脳内に情報や経験値が蓄積してくるために、条件分岐のパターンが増えてくるように思うのだ。

悲劇の経験値も幸福の経験値も、記憶の中で格段に増えている。

つまり

elsif
then A
elsif
then B

・・・・
・・・・

の分岐がね、異様に増えてくるわけだ。普通ならAに落ち着くのが順当に思えても、過去に手ひどくBだったりCだったり、あるいはZだったりという驚愕に直面していると、ついAだけ例示して後は

「言わぬが花」

としておくのがそれこそ吉。と思えてくる。
深い話はおそらくAにはなくて、CかDかあるいはZの付近にあるのだ。
それが真実に近い場所。それを知っているがゆえに、Aで止める。

これは自分を振り返ってみても、やはり年々その傾向を増しており、(ほんとかよという声もあるが)かつては一直線に進めたはずの道が、今では思わぬ木々が茂る迷い道となり、足を止める道となる。

迷い方も、若いときとは違っていて、この条件分岐のパターンの中ではZ付近はおぼろげに見えているのだが、この演算を果たして続けることが、どうなんだよ?みたいな迷い方もある。

AかBかで迷っているのではないんだよ、こちとら。

なーんて言っても、この文脈すら通じない人にはおそらく通じない。


この状態は、見る人からすれば、特に若く血気盛んな人から見れば相当に苛立たしい場合もあるのもわかる。

自分の記憶でも、何がいやって、オヤジ同士が薄くなった頭をつき合わせて


「ほら、あれでしょ?あれ?」
「あれ?はいはいはい。そこはもうそれで・・・ね?」
「そうですね、まあそこから先は・・」
「言わぬが花ということで」
「まあ、いろいろありますからねえ 笑」
「じゃあもう一杯・・」



などという会話を聞くことほど不愉快で不潔感を感じたことはなかった。
死ねとか思ったよ。どうせそっちが先に死ぬけど、とか。

ふざけんな、何が「まあいろいろありますからね」だよ、うるせーよってね。


一体何が「いろいろ」あるのか。

人生における「まあいろいろある」の「いろいろ」とは何なのか。

どこまで書き下せるか。

そのあたり。

人によって書き下せる度合いは異なるのだけれど、ぎりぎりまで書き下そうとする人とずいぶん浅いところで止めてしまって、あきらめてしまう人がいる。最初から書き下す意志すらない人もいる。


「ことのは騒動」にしても関係した人たちが、みな


「まあ、いろいろある」


のもわかる。自分も含めてね。


「いろいろ」


の中身こそがしんどいのはわかる。しんどいのはわかるのだが、もう1センチ先に進めないものか。
もうほんの少しだけ、その「いろいろ」を克服できないものか。



「まあいろいろあるよね」で通じる世界と通じない世界があるのだ。



停滞している脳内条件分岐の海の中で、今そんなことを思っている。


慌てることもないがね。