■佐々木俊尚:「ことのは」問題を考える について少しだけ3--ネットは「絶対的正義」ではなく「相対的正義」が血を流しているのである。


佐々木さんも、「絶対的正義」を形成してきたのは、元々マスメディアであるという認識は持っているようである。

しかし私は今でも、マスメディアが声高に書いてきた絶対的正義の向こう側に、

しかし

フラットになった言論の世界が誕生し、そこにインターネットのジャーナリズムの可能性があると信じている。なにがしかのその可能性が、単なる楽観主義でないことを、私は今ただひたすら祈っている。


「フラットになった言論の世界」とは何なのか。それは、情報発信の中心を持たない、いわば分散型の言論スフィアをイメージしているのだろうか。もしそうだとすれば、これは正しくネットでは展開されているのである。このような形で、私は誰に遠慮することもなく、「著名なジャーナリスト」を批判することができる。私の社会的立場や年収は関係がない。その気になれば、16歳の高校生にもあなたへの批判が可能である。


ネットが実現したのは決して「絶対的正義」を振りかざす群れではなく、むしろ「相対的正義」を主張する何千万という小ブロゴスフィアなのである。それらは、時として確かに一つのターゲットに向けて、集中的に批判を浴びせる。


しかし重要なのは、それらに全て「自由」が保証されており、互いにチェックしあう反論の機会が与えられているということである。もしも今混乱があるとすれば、これらの小宇宙が、火花を散らしているのであり、何か「絶対的正義」を振りかざす一連の群れが秩序だって一つの対象を攻撃しているというのとは違う。
(この点で朝日新聞が醸成した「ネット右翼」のイメージは罪が深いと思う)

「ことのは騒動」の構造を良く見てくれれば、それはわかるはずであるし、オウム問題に関して一貫して取り組んできた滝本弁護士は、このことを軽々と理解して、その上で言うべきは言い、その解決策も具体的に示している。


繰り返す。

もしも今血が流れているとすれば、それはこれら小ブロゴスフィアのぶつかり合いなのである。それらは共通の「絶対的正義」など持っていない。単純にお題目を唱える単細胞も確かにいるが、そうしたものが力を持っている世界ではない。その混乱に目をつぶったところで、いかなる「フラットな言論世界」が登場するというのだろうか。私にはそれがむしろ全く見えない。



もしも佐々木氏や、その他のジャーナリストたちが、「ネットジャーナリズム」や「参加型ジャーナリズム」という言葉の向こうに現出するものが、静謐な美に溢れた秩序だった世界である理想を思い描いていたのだとすれば、それは認識が甘過ぎるのではないかといわざるを得ない。



言論の自由が、仮に血を流して勝ち取られたものだとすれば、我らが直面しているネットジャーナリズムも、今後「血」を流さなければならないのである。残念ながら著名ジャーナリストの多くが、それを認識せず、悪戯にネットジャーナリズムを美化し、この血にまみれることを、露骨に恐れている。私にとっては、そのほうが、真に憂慮すべき事態であると思っている。


単なる楽観主義でないことを、私は今ただひたすら祈っている。


悪いが、それは楽観主義であろう。